本屋の店先で偶然「怪物伝」(著者 福田和也 角川春樹事務所)という本を目にした。「かって日本に存在した、あまりに凄すぎる怪物27人」という帯封が面白かったので買ってみた。
「怪物とは何か?」著者は「辻政信」の項の中で「怪物、という言葉がいささか肯定的な意味合い、つまり小粒で無味乾燥な当今の世間のなかで、団栗の背比べとは一線を画したスケールの人物というような爽快さをともなって語られる・・」と書いている。
27人の人物の中にはかなり知っている人物もいればほとんど知らない人物もいる。どうしてこの人物を選んだのか?という疑問を伴う人物もいる。
例えば徳富蘆花だ。蘆花は「怪物伝」に入っているが、スケールからいうと桁が違う兄の蘇峰は入っていない。もっとも著者はちゃんと初めに「蘆花の名前を挙げて、怪物と呼ぶにはいささかの無理はあるかもしれない。怪物、というのならば、その兄である蘇峰の方がふさわしいだろう。」と最初に断っているが。
蘆花の項目を読み進むと、彼が大逆事件の後、一高の生徒を前にして講演した時の言葉に出会う。
「諸君、幸徳君らは時の政府に謀反人と看做されて殺された。諸君、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは謀反である。(中略)繰り返して曰う、諸君、我々はいきねばならぬ、生きるために常に謀反しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」
講演が終わった後、しばらく沈黙がたちこめ、やがて絶大な拍手が講堂をゆるがした。
政府の激しい弾圧の前に総ての言論人、知識人が口をつぐんでいた時、一人蘆花のみが批判の声をあげたのである。やはり蘆花は怪物であろう。
☆ ☆ ☆
我々の生きている社会は、規則や世間の目が厳しくなり、味気なくなった。サラリーマンの世界でも意気に感じて動くということがあり、それを阿吽の呼吸で許す風潮があったと思う。
しかしやれ規則だ、やれコンプライアンスだということですっかりギスギスしてきた。政治の世界でもフィクサーやドンと言われる人がいなくなり、重箱の角をつつくような話で時間のみが流れていく。
無論フィクサーを単純に肯定する訳ではない。家族を困らせるような破天荒な生き方を是とする訳でもない。だが、怪物の生き方の中には、我々凡人では果たせない生き方がある。それは己の信じるもののために、善悪や世間の規範の彼岸を行くバイタリティの発揮である。いわば世俗に対する謀反である。
我々の心のどこかには、常識への逸脱に対する憧れがあり、怪物たちはそこをくすぐる・・・と私には思われる。
文庫本一冊に入っている27人の怪物のスナップショット。その中で気に入った人物が見つかれば、巻末の参考文献などから更に読み進めばよい。「怪物伝」は怪物へのプラットフォームである。