本日(8月30日)の衆院本会議で昨日民主党代表に選ばれた野田氏が首相に指名された。野田氏が海外メディアでどのように評価されているかを見たところ、「ドジョウ」の演説がちょっと注目を浴びている。
「ドジョウはドジョウの持ち味味がある。金魚のまねをしてもできない。泥臭く国民のために汗をかいて、政治を前進させる」という演説を聴いて、野田氏への投票を決めた議員が多いとヨミウリオンラインは書いている。
ドジョウの演説のベースになったのは相田みつをの詩だが、この作品を野田氏に紹介したのが参院議員会長の輿石氏だとヨミウリオンラインは述べている。
このドジョウの演説についてニューヨークタイムズは、野田氏のself-depreciating style(自己卑下スタイル)が、国民を受けるかどうかはまだ分からない。しかしアナリスト達は、自己を低く見せることで、首相就任時の期待プレッシャーを低くして舵取りをやり易くする効果があると見ていると述べている。
Self-depreciatingという言葉はエコノミスト誌でも使われていた。エコノミスト誌は「野田と呼ばれる魚」A fish called Nodaというタイトルの記事で「野田氏については少なくとも健全な危機意識と上手い自己卑下のユーモア感覚があるといえる」と相応の評価を下している。
相応の評価とは言ったものの、気になるのはSelf depreciatingという言葉。謙虚という意味のModestyという言葉なら良いのだが、自己卑下というのは一国の宰相に対する評価としては如何なものだろうか?
私も野田氏の「どじょう」演説をテレビで見ていたが「自己卑下」とまでは感じなかったので、むしろ海外メディアに底意地の悪さのようなものを感じている。もっともこれは「謙虚と自己卑下」の間の線の引き方に対する日本人感覚と欧米感覚の差に過ぎないかもしれない。
それにしても小泉元首相以後ここ5年間、我々は毛並みが良くプライドを持った首相の空疎な言葉と指導力のなさに振り回されてきた。それ故「どじょう」演説が新鮮だったのだろう。
野田新首相には「二匹目のどじょうはいない」という諺を肝に銘じて、一度きりの真剣勝負をして欲しいものである。