水曜日の夜は時々NHKの歴史秘話ヒストリアを観る。知っている話も多いのだが、そこを踏み台にして色々考えるのが面白い。
徳川二代将軍秀忠の長女として生まれた千姫は7歳で豊臣秀頼と結婚。二人の中は睦まじかったが、子どもはなかった。ヒストリアによると大阪城落城前に千姫は大阪城を抜け出し、祖父の家康に義母・淀の方と夫・秀頼の助命を嘆願した。家康は助命を検討しようというニュアンスの曖昧な返事をし、父の秀忠にも嘆願に行け、と言った。千姫は秀忠に助命に行くが秀忠は峻拒する・・・
その後本多忠刻と再婚し、姫路城で幸せな日を送っていたが、やがて長男が3歳で夭折、夫忠刻をその5年後に失うという不幸が続いた。ヒストリアはそれを前夫秀頼のたたりと千姫は考えたと解説する。やがて千姫は出家し、天樹院と号し70歳で天寿を全うした。
さて幾つかの雑感。まず「秀頼たたり説」について。「たたり」とは非業の死を遂げた人が、加害者に直接仕返しをしたり、それ以外の人に厄災を見せることで自分の霊を祀れと催促するような現象を指すのだろう。
怨念を持って死んだ人が、恨む相手に直接危害を加えたと考えられる例では藤原時平に左遷された菅原道真が死後時平に祟り、ために時平は39歳で亡くなったと当時考えられた。
では殺された人は誰でも殺した相手に恨みを持ち祟ると考えられたのか?違うと思う。非常に大きな要素は「卑怯な仕打ちでアンフェアに殺された」ことだと私は思う。戦場でマトモに戦って相手に打たれたのであれば恨みは残らない。だが闇討ち、だまし討ちの類は恨みが残る。現代的にいうと騙した方の自責の念が、祟りという虚像を拡大するのである。
では秀頼の場合、つまり徳川家康による豊臣家滅亡作戦の場合、何がアンフェアで祟りの対象となった行為と考えられたのだろうか?
私は二つあると考えている。一つは戦争開始の理由付。方広寺鐘銘事件だ。「国家安泰 君臣豊楽」と書かれた梵鐘の文字に家康が因縁をつけたのは有名な話だ。つまり大坂の陣は大義のない戦いだったのだ。
次は大坂冬の陣の和睦が成立した後、和睦条件の大坂城の堀を埋めた件だ。大坂方は外堀を埋めると約束をしたと考えていたが、徳川方の奉行・本多正純は平然と二の丸や三の丸まで埋めていった。大坂方は正純に何度も使者を送り約束違反だと抗議したが、正純は仮病を使い武士の約束を無視して堀を埋め進めた。そして徳川・豊臣は夏に再び戦端を開くが、裸の城となった大坂城はあえなく陥落。夏の陣で豊臣家は滅んだ。徳川側の悪知恵が甘ちゃんの大坂方を嵌めたといえばそれまでだが、和睦条件の不履行は武士にあるまじき行為である。
私はこの二つの大きな卑怯でアンフェアな行いが祟りの原因であったと考えている。現代的にいうと世論はこの二つの行いはアンフェアな行いと考えていたのである。
それにしても戦火をくぐって助命のために奔走してくれた妻に不幸をもたらすというのは、祟りの筋違いという気がするがいかがなものだろうか?あるいは魂魄がこの世に留まり、自分の後生を祭ってくれという催促だったと解釈するべきなのだろうか?
祟り話を続けると、夏の陣の5年後宇都宮15万石の太守に任じられた本多正純は「宇都宮吊り天井」冤罪でその地位を終われ、出羽国横手に蟄居させられる。
大久保忠隣や福島正則など本多正純により蹴落とされた人間は多いので、豊臣家の祟りばかりではあるまいが、当時世間は「因果の報い」と噂したそうである。