福島県への旅行二日目(4月15日)、岳温泉「喜ら里」を朝8時半に出て、会津若松の鶴ケ城を目指した。岳温泉から鶴ケ城までは約1時間のドライブだ。磐越道に入り幾つかトンネルを抜けると右手に雪を頂いた磐梯山のピラミダルな姿が見える。
会津若松に来るのは5年ぶりだ。前回は勝常寺から日新館に回り、鶴ケ城は観なかったので、今回は大河ドラマ「八重の桜」の舞台になる鶴ケ城と会津武家屋敷を見ることにした。
風は冷たいが天気は良い朝だ。鶴ヶ岡城の天守閣に登ると、磐梯山と飯豊山が良く見えた。
観光客には近くに見える磐梯山の景色が印象に残るだろうが、山屋には会津盆地の北辺に大きく広がる飯豊山の白い峰が強く呼びかけてくる。
「ああ、あの真っ白な山の頂を歩いたのだ。自分の影が長く山稜に伸びる夕刻まで雪の山で遊んだのだ」と思うとひときわ懐かしさがこみ上げる。
会津盆地は京都盆地などに較べるとはるかに大きく取り囲む山の懐は深い。幕末、京都に滞在し戦火をくぐった会津兵たちは「布団着て寝たる姿」の東山を見ながら、会津の大きなそして険しい山々を思い出すことがあったのだろうか?
1時間ほど鶴ケ城を見学した後、車を「会津武家屋敷」に向けた。ここは家老西郷頼母邸を再現したものだ。武家屋敷と聞くと金沢の武家屋敷街など古い町並みが残っている風景をイメージしたが、そのような町並みはなかった。恐らく武家屋敷は会津戦争で灰燼に帰したのだろう。なお850円という拝観料は少し高い気がするが、遺構の再構築費用などを考えると止むを得ないのだろうか?
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武家屋敷の中には山川兄弟に関する資料も展示されていた。
薩摩人 みよや東(あずま)のますらおがさげはく太刀のときかにぶきか 山川浩
山川浩、国家老山川家に生まれ、明治維新までは大蔵と名乗るが維新後浩と改名。上の和歌は西南戦争に従軍した時の歌。後に陸軍少将に昇進。弟は東大総長などを歴任した山川健次郎、妹は大山巌を嫁いだ大山捨松。明治の日本の近代化に貢献した優れた兄弟だ。
会津盆地にたって四方を見渡すとその広さと自然の恵みの豊かさを感じる。その豊かさが徳川御三家の水戸藩を上回る石高を会津藩に与え、その経済力が京都守護職としての京都での活躍を可能にした。そしてその経済力と藩祖保科正之から綿々と続く忠勤の心や武士の気骨といったものが、会津戦争という悲劇につながった・・・・そしてその悲劇をはね返す山川兄弟のような人が出てきたと思うと会津は偉大である。そしてその偉大さは教育によるところが大きいと改めて感じた。
武家屋敷の入り口にある九曜亭というレストランで蕎麦を食べて会津を後にした。春の短い福島旅行はこうして無事終わった。