暑くて寝苦しい夜、本棚の中から古い本を引っ張りだして読んだ。池波正太郎編「酒と肴と旅の空」という随筆集である。その中の「献立表」というエッセーで團伊玖磨氏が次のように書き出していた。
「何処かしらない遠くの方で、人間一人一人の運命を決める骰子(さいころ)が振られていて、その賽の目が「旅」と出れば、その人は旅に出ることとなり、「金」と出れば、その人に金運が訪れ、・・・・・その出た賽の目によって人間が操られているのでは無いか、などと妙な事をふと考えることがある。」
もしこの仮説が本当だとすると私の夏の骰子は「山」の目が刻まれているようだ。もっとも「山」の目がでるのは、夏だけではない。春夏秋冬を通じって私の骰子は仕掛けを施したようにに「山」の目がでる。しかも「山」の目が出る時は続けて出ることが多く、さらにその後「旅」の目がでることが多い。
ただし私は團氏のような運命論的な考え方を抱くことは余りない。私の賽の目はもっと因果の必然に操られているのである。
春夏秋冬を通じて「山」の目がでるとは言ったが、巨細に見ていくと「山」の目がほとんど出ない時期が時々ある。一つは「梅雨の季節」だ。次は「12月の初め頃」と「1月中下旬」である。梅雨に「山」の目がでないのは歴然としているが、何故12月初め頃と1月中下旬に「山」の目が少ないか?というとこの時期は高い山の雪の落ち着き具合は悪くかつやたらと寒い時期だからだ。怠惰になった山スキーヤーには少し厳しいシーズンである。ただし年末年始などは太平洋側の雪の少ない山を歩くことが多いので時々「山」の目がでる。
「山」の目が出る時、続けて同じ目がでる理由は簡単だ。季節が良い、休みが取り易いなどの理由で、所属する別々の団体が毎週のように登山を企画するからである。また「山」で家を留守にすることが増えると、カミさん孝行のため「旅」の目がでるのである。
さてまもなく今年の夏の「山」の目がでる時期が近づいてきた。第一陣は再来週7月19-21日で南アルプス仙丈ヶ岳で、その翌週が北アルプスの五竜岳だ。そしてその翌週は「旅」の目で、ワイフとマイカーで「伊勢参り+京都(墓参り)」に向かう予定だ。
もっとも「旅」の目がゾロ目になって広がる場合もある。昨日岡崎在住の友人から「花火大会の桟敷が取れたので遊びにこないか?」という誘いがあった。これが8月3日(土曜日)で、伊勢参りを予定していた前日の話だ。さっそくスケジュールを調整してまず岡崎に行き、翌日フェリーで伊良湖岬から鳥羽まで渡ることにした。骰子は時に転がり過ぎることがあり、因果律だけでは説明できない場合があるようだ。