今日は少しお酒が入っている。お酒が入ると日頃抑えていた蓋が外れ、言いたいことが飛び出してくる。偶にはそれも良い。溜飲を下げることも健康の内だ。
私は今相続学会の事務局を務めている。「学会」という世界の風習かどうかしらないが、やたらと相手に「先生」と敬称をつける馬鹿馬鹿しさに私は呆れている。まじめに勉強している弁護士に「先生」と敬称をつけるのは、まあ良いとして税理士や司法書士の人にまで「先生」と敬称を着けるのは如何なものだろうか?と私は感じている。
私の個人的経験からいうと、それら「先生」と呼ばれる人の中には実はビジネスセンスが欠如している人が多かった。私の大学の同級生の中にも会計士の資格などを取って「専門職」を目指した人もいたが、多くの仲間は専門性を評価するよりもビジネスマンとしてのコモンセンスの乏しさから彼は専門性に逃げ込んだ、と評価したようだ。「四角(資格)ばって生きるより丸く生きる方が大事」というのは資格に縁のない人間の負け惜しみかもしれないが。
人の一生は長くなった。サラリーマン時代に組織の壁を少々上まで登ることの意味はなくなたというべきかもしれない。むしろ早目に資格を取って「手に職」をつける時代だ、という意見も傾聴するべきかもしれない。
だがもし日本の社会のベクトルがアメリカの社会を向いているとか仮定するならば(それが良いとか悪いとかいう積もりはない)、日本の「先生」などには迷わされないことである。アメリカのビジネス社会では司法書士(という資格はないので「弁護士」の一部だが)、不動産鑑定士、会計士などは「業者扱い」である。先生という呼び方は英語にはないし、仮にあったとしてもそのような敬称を奉る人は誰もいない。
そもそも米国は「平等社会」だから、職業で敬称をつけることは少ない。ただ私の経験では判事についてはMr.judgeという言い方をしていたから敬意を表していたようだ。だがそれ以外のプロフェッショナルはすべて名前で呼び合うというのが米国社会だった。
この瞬間はどうかしらないが、米国のビジネス社会で高い評価を受けてきたのは、経営者とバンカーである。バンカーというのは銀行員というよりは証券会社の引受マンという方が良い。なぜ彼らが高く評価されるか?とういと、彼らは企業価値を作る人、その価値を実現する人だからだ。
日本で巷間「先生」と呼ばれる人は実はclericalな仕事をしているに過ぎず、企業と社会に何ほどの価値ももたらしていないというのがアメリカ社会の判断である。
「先生」が横行する社会は規制緩和の彼岸である、と私は考えている。誰がいった言葉からしらないが「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という言葉は気持ちの良い言葉だ。
後数年するとこの言葉は「先生と言われたところで飯はなし」と替わると私は思っているが。