孫子の九変編に「知者の慮は必ず利害に雑(まじ)う」という言葉がある。一般に「知者はものごとを判断する場合、利益の面と損失の面を合わせて総合的に判断する」という意味だと解釈されている。
私はこれに加えて「知者は国家の外交判断に感情を雑えず、利害というソロバン勘定を雑える」と意味があると考えている。何故そう考えるか?というと孫子は別の箇所で「君主や将軍は怒りの感情から戦争を起こしてはいけない」「戦闘に勝ったとしても、政治目的を達成できなければ、浪費(原文は「費留」)である」と述べているからだ。つまり孫子にとって君主・将軍とは、戦争による人命・物資の膨大な損失を考慮した上で、戦争の可否を判断すべき存在である。外交は血を流さない戦争であり、その方針は国益(損得バランス)の冷静な分析により判断されるべきである
TPPの問題について考えると、日本にとって有利なルールもあれば、不利となるルールもある。議論されている分野は29もあり、交渉に加わっていない日本はまだその全容は把握できていないが時の経過とともに詳らかになっていくだろう。
さて「知者の慮は必ず利害を雑う」という孫子の命題に従って、TPPに関わる日本の利害を考えてみよう。3月の政府試算によると、参加国が総ての関税を撤廃する場合、TPP不参加の場合と比べ10年後のGDPは3.2兆円増える(一方極端な前提ではあるが、農林水産業の生産額が3兆円程度減るという試算もある)。
日本企業がTPP交渉参加国に輸出する際、負担している関税は4,700億円で、日本が農産物等の関税で受け取っている収入は2,300億円に過ぎない。従って国全体としての収支としては明らかに12カ国がTPPに参加して総ての関税が撤廃された方がメリットがある。
といったそろばん議論をすると、TPP反対派の人から「食料自給率の問題はどうするのだ」「食の安全基準の問題は?」という反論が呈されるだろう。たしかに政府試算ではコメの場合、国産の3分の1が米国産と豪州産に奪われる、とされている。だが食料自給率が低下する国の安全が保てないと考えるのは幾つかの点で大きな問題がある。
一つは「既に日本の自給率はかなり低い(自給率は計算方式により異なる。話が複雑なので数値は省く)。だがそのこと国家の安全性に直接影響を与えているとは思われない。従って今後自給率を100%に引き上げるという大方針を遂行するのでなければ、自給率の低下がTPP参加可否の決め手にはならない。」という点である。次にこちらの方が大事なのだが、今の農業は石油がないと成り立たない、のである。石油がないと耕うん機も脱穀機も動かない。化学肥料も作れないし、収穫した農産物を消費地に運ぶことができない。つまり食料確保の問題を論ずるのであれば、石油資源の確保をどうするか?ということを議論しなければならないのである。さらに国家の安全性を確保するには、名称はどうあれ、自衛力の維持・向上が必要で、そのためには税収とその元になる経済力が必要なのである。
「食の安全基準」については、遺伝子組み換え食品について、米国には表示制度がない。一方日本、オーストラリア、ニュージランドは表示を義務付けられている。ここは「消費者の安全と健康を守ることが最大の国益」という姿勢で、譲るべきではない。
短いブログの中でTPPの得失を十分に論じることはできないが、それを検討する政治家を選ぶ時に私は「知者の慮は必ず利害を雑う」という言葉を思い出すと良いと考えている。国としての総合的な利害をきちんと分析して、判断する前に、「とにかく反対」という感情論が先行する人や、一部のセクターの損得による判断を下す人が国政のリーダー足り得ないということを、孫子は2千5百年前に喝破したのである。