今日(4月20日)の産経新聞朝刊一面の「小さな親切大きなお世話」で曽野綾子さんが老人ホームにおける食事時の会話のなさを問題にする意見を述べていた。曽野さんは「多くの施設の中は老人にとって残酷なものになっている。曽野さんはその理由は彼らに生きる目的も会話の楽しみも与えていないからだ」と述べ聖書の「受けるより与える方が幸いである」という言葉を引用して、人は受けるだけでは魂の死に至る、尊厳も失うと続けていた。
なかなか良い言葉なので聖書を開いて、前後を読んでみた。これは使徒言行録20章「エフェソの長老たちに別れを告げる」の中の一文で、パウロがエフェソを去る時に教会の長老たちに話をした言葉で「わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」とある。
これに関連して思うことは「人前で何かを話す・何かを発表するということは本当に勉強になる」ということである。
話をするためには、ストーリーを作り、あいまいなところを調べ直し、味付けをするという作業が先行する。これは自分の考えを整理する上で大変役に立つ。また「お話、良かったですね。ためになりました」などとお世辞でも褒められると、脳の中で「快楽物質」のドーパミンが分泌され気持ちが良くなる。気持ちが良くなると次も頑張ろうとなるプラスのサイクルができてくる。
また適度のドーパミンが分泌されると免疫力が高まり、自然治癒力が高まると言われているから自分にプラスに働くわけだ。
俗にいうと「情けは人のためならず」(良いことをすると自分にプラスが返ってくる)とはこのようなことを含むのかもしれない。
もっともキリストやパウロがこのような「功利的な」判断で「受けるよりは与える方が幸いである」と言ったなどと解釈すると専門家からはお叱りを受けるだろうが。
なお人前で話をするというのは「講演」など大袈裟なことだけではない。親しい人と集まって、酒席や茶会などで他愛もない話にウンチクを傾けるということも、人生に豊かな彩を添えることは間違いない。