先月末ユネスコは長崎・天草地方の潜伏キリシタン遺跡の世界文化遺産登録を決定した。
それ自体喜ばしいことだと思うが、歴史には常に多面的な見方があるという例としてライスクリスチャンの話を書いてみたい。
その理由は、世界遺産登録を機に
「潜伏キリシタン」=江戸幕府の禁教令から身を隠し通したもの=善玉
禁教者=凄惨な弾圧をした江戸幕府=悪玉
という単純図式が広がる可能性に懸念したからである。
大航海時代以降スペイン・ポルトガルなど欧州列強が取った侵略手段は「最初に宣教師を派遣し、ボランティア活動を通じて現地人の心をつかみクリスチャンを増やす」
「次に宣教師が商人を連れてくる。商人は自分の儲け中心の強引な商売を進め現地経済を混乱させる」
「次に現地の既存勢力と現地のクリスチャンとの対立を煽り国力を消耗させる」「国力が消耗しきったところで併呑する」
というものだった。
この現地のクリスチャンのことをライスクリスチャンという。
英語のWikipediaは「ベトナムのトンキン地方で牧師の説教より施しもの(米)の方がキリスト教への改宗が効果的」だったので、食い扶持につられてクリスチャンになった人をライスクリスチャンと呼ぶと説明している。
やや極端で単純化した図式では、このライスクリスチャンが侵略者の手先となって協力したことでインドや東南アジアで植民地化が進み、中国でも主権が大きく損なわれたということになる。
(実際の歴史はもっと複雑である。インドではイスラム教徒とヒンドゥ教徒の対立がイギリスに利用されるなど様々な材料が植民地化に利用されている)
豊臣秀吉や徳川家康および秀忠あたりがどれほど欧州列強の侵略手口を事前察知していたかは不明である。しかし結果として彼らのキリシタン弾圧が日本におけるライスクリスチャンの拡大を防ぎ、日本の植民地化を防ぐ上で一役買ったことは間違いないだろう。
私はここでライスクリスチャンを批判する積りもないし、江戸幕府のキリスト教禁止政策を無条件に評価する積りもない。
ただ歴史は常に多面的な様相を持っており、立つ位置によって色々な見方ができるということを述べたまでである。