今日(9月4日)の日経新聞長官(ネット)のトップは、安倍首相の「生涯現役制度に向けた雇用改革」。自民党総裁選挙で安倍首相が勝てば最初の1年で「継続雇用年齢を65歳以上に引き上げる」など具体策を検討する予定だそうだ。
仮に法律を改正して雇用年齢を65歳以上に引き上げることができたとして本当にそのような制度が良いのかどうか?実際に機能するものなのかどうか?素朴な疑問を持った。
まず働く側の立場として「一生涯働かないといけないの?退職後には仕事以外にやりたいことがあるのだが」という生きがい論からの疑問が起きる。
安倍首相は働き続けることを「生涯現役」といっているようだが、働く=お金を稼ぐことだけが現役ではあるまい。ボランティア活動や趣味の世界にも現役というものはある。
アクティブなシニアはそれぞれの分野で現役だと私は考えている。働いている人=お金を稼いでいる人だけを現役と考えるのは、貧相な発想だと私は思う。
その解決方法は「働きたい人はいつまでも働け、リタイアしたい人は一定年齢でリタイアできる」という定年制度がない社会を作ることなのだろう。
日本で定年制度を廃止することは極めて難しいという議論があることは百も承知の上で理想論をいうと、米国のように定年制を廃止するのが好ましい。
米国に定年制がない理由は明快で「定年制が年齢による差別」であり、勤労者を性別・出身地などの属性で差別してはいけないという雇用の基本理念に抵触するからだ。
ただし事実上は米国の厚生年金(報酬比例分)に相当するソシアルセキュリティが支給される66歳を節目にリタイアする人が多い。
なぜなら多くのアメリカ人はリタイアした後に「海外旅行」「別荘地に移り住んでゴルフ三昧の生活」「ボランティア活動」などやりたいことを沢山抱えているからだ。リタイアして自分のやりたいことをやることで生涯のワークライフバランスが完成する訳だ。
もっともアメリカ人の中にの66歳以降も働く人はいる。年齢による雇用制限はないから能力が認められる限り働き続けることは可能だ。
本当はこのような制度が望ましいのだろう。このような雇用制度に変えようとする時立ちはだかるのが「給与テーブル」という壁ではないか?
多くの日本企業は定年再雇用時に「定年前の年収の何割」という給与の決め方をする。そして定年前の年収は、基本給テーブルをベースにして決まっている(職務給が上乗せされるが)。
このテーブルベースの給与システムを改めて、その時々の「雇用される能力」employability をベースに給与を決める方法を採用することが生涯現役制度には必要なのだろうと私は思う。
さてemployabilityについて考えると「長期間にわたっていつでも雇用される能力」を維持することは難しい。
技術環境や消費者のニーズに合わせて必要とされる能力は変化していくからだ。そのような変化に合わせて自らの雇用される能力を変えていく能力がないと生涯現役を続けることは難しい。
雇用される能力を変えていくには学習を続けるしかない。そのためには若い時から学習する方法を学習するメタ学習が必要なのである。
以上のように考えると1年程度で法改正をしたとしても、多くの人が生涯現役で働き続けるような社会を実現することは難しいのではないか?と私は考えている。