2,3日前に安倍首相が日経新聞のインタビューで示した「生涯現役論」への道筋。ネットで検索すると「生涯現役」は「生涯奴隷」などと批判が書かれている。
内容はさておき「生涯現役」「生涯奴隷」の「生涯」という言葉は大袈裟だ。政治家とは大袈裟で大雑把な言葉を好む人種なのだろう。
安倍首相の「一億総活躍」などというのも大袈裟な言葉だ。どことなく戦前の「一億総玉砕」と響きが似ている。少し前まで「終身雇用」という言葉が一般的に使われていたが、これも大袈裟な言葉だ。終身雇用というのは、働きたいと思う社員がいれば終身雇用するという意味だろうが、現在そのようなファミリー的な会社は極めて少ないだろう。半世紀ほど前の日立製作所にはそのような慣習があったという話を聞いた記憶があるが今では夢物語である。
「生涯現役」も「終身雇用」同様レトリックであり、現実的には「70歳くらいまで働くことができる社会を作ろう」というところが政治家の本音ではないだろうか?
だが「生涯現役」などという全体主義的な言葉を聞くと私は反発を覚える。要は働く能力=employabilityがある人で働く意欲がある人が働きたいだけ働ける社会を作ればよいだけの話である。
一方たとえ働く能力があっても、自分の世界に入るため働かないという選択をする人も尊敬される社会でないといけないと思うのだ。要は個人の自由な選択を可能にする社会が理想なのだ。
兼好法師は徒然草の中で「名利に使われて、閑かなる暇なく、一生苦しむこそ、愚かなれ」と喝破した。
山本常朝は葉隠の中で「人間一生誠にわずかの事なり。好いたる事をして暮らすべきなり」と本音を語る。もっとも常朝はすぐその後で「このことは誤解されると害になるので若い連中には決して話さぬ奥の手だ」と但し書きをつけている。
葉隠というと「武士道とは死ぬことと見つけたり」という過激な意見が耳目を集めるが私はこれもレトリックだと考えている。江戸時代初期の鍋島藩というある意味では特殊な藩で「奉公」を全うするには「理不尽に死ぬ」ことがあっても従容と受け入れる覚悟が必要ということを常朝は述べたのであり、本音は「人生は短いのだから好きなことをして暮らすべき」ということなのだ。
その個人主義的発想は「名誉や利欲に縛られて生涯苦しむのは馬鹿げたことだ」と喝破した兼好法師の個人主義と通底している。
このような個人主義的発想は浅薄な「生涯現役」論の対局にあるものだ。だがレトリックというものは怖い。葉隠は「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一フレーズを持って全体主義者に奉られることもある。「生涯現役」という言葉も全体主義的な使われ方をすると「生涯奴隷」社会の旗振りになる危険性なしとはしない。
人生100年といっても、健康寿命は平均的には70歳前半という。70歳まで働くとすると健康な生活を送ることができるのは5年以下ということになる。
もっともこれは平均の話なので、10年15年と健康な生活を送ることができる人も多いと思う。でも先のことはわからない。分からないから個人の選択肢が多い社会を作るべきなのだ。
自分で選択した結果については、人に押し付けられた行ったことによる結果より納得感があるからだ。要は好きなことをして暮らすのが一番納得感があるのだ。