連日マスコミを賑わしている統一教会の霊感商法。「これを購入すれば不幸から免れることができる」といって高額な壺や数珠などを売り付けたり、またはお布施名目の金品を要求するものだ。
一般的なセールストークには「サクセスストーリー」と「ホラーストーリー」があり、ホラーストーリーの方がより消費者の心を支配すると言われている。
色々な宗教団体も基本的には「サクセスストーリー」か「ホラーストーリー」を使って、信者からお賽銭や祈祷料を集めている。
「商売繁盛の祈祷」とか「受検合格のお札」などはその代表的な例で、サクセスストーリーによるご利益(りやく)の販売と考えてよいだろう。
宗教には「信じたところで現世の利益を約束してくれない」タイプの宗教と「信じてお参りをし、お賽銭をあげると現世の利益を与えてくれる教える」タイプの宗教がある。日本で人気が高いのは、受験合格、縁結びなど身近な目標の実現を助けてくれる神様だ。お参りすればご利益があるかどうか?という点について私は自分自身の精神や潜在意識に働きかけて集中力を高める効果があるので、努力している人には一定の効果があると考えている。
功利的な説明なので、宗教団体の方から支持されるかどうか分からないが。
サクセスストーリーをベースにしたお札の販売などは、伝統に基づくものが多く、集中力や自分に対する自信を高める効果がある一方、経済的な負担は軽いものなので、社会的に問題になるものではないと思う。
宗教学的には議論はあるかもしれないが。
一方ホラーストーリー型は、霊の祟りなどという合理的に説明できないストーリーを持ち出し、信者を不安に陥れ、多額の金品を要求することが多いから、社会的に問題が大きい。問題が大きいが、行政や政治家が声高に「それは邪教だ」と声を出すには腰が引けるところがあるだろう。何故なら「ホラーストーリー」を展開する宗教団体側から「信仰の自由」を侵すと反論される可能性があるからだ。
実際日本の仏教では程度の差こそあれ、先祖の霊の供養の話を持ち出しているから、カルトと伝統的な宗教の線引きは難しい点がありそうだ。
ではどう考えれば良いのだろうか?
その一つの答は、釈迦が仏教を唱えたところにあると私は考えている。釈迦が仏教を唱えた頃、当時の北インドではヒンドゥ教が広く信じられていた。ヒンドゥ教の教えの根幹は「人の人生は前世の行い(=業・カルマ)で決まる」。そして死と生まれ変わりという輪廻が永久的に続いていくというものだった。
これに対し、釈迦は「欲望をコントロールし、知恵に基づく思考を深めることで輪廻を超えること=解脱ができる」と説いた。つまりヒンドゥ教の教えの根幹を否定し、「死後の世界」のことを語らなかったのだ。
何故なら分からない死んだ後のことより、今をどう正しく生きるか?ということが釈迦の最大の関心事だったからだ。このように考えると釈迦が説いた最初の仏教には、前世の祟りのような考え方はなかったと私は考えている。
釈迦の教えの「八正道」の根本は、「ものごとを正しく見なさい」ということ、言い換えれば、理性を働かせものごとを見なさいということだったと私は考えている。
そこからは遠い先祖の怨念が子孫にあだをなすなどという考え方はでてこないはずである。
ところが釈迦の教えは、インドから中国を経て日本へと伝わる間(大乗仏教の流れ)に、大きく変貌してしまった。何故どのように変貌してしまったか?ということを説明する時間はないが、宗教団体(寺や宗派の本山)の都合からいうと、先祖の供養などを細かく儀式化することで、お布施などの金品を檀信徒から集める機会を増やしてきたと集約することができる。
従って日本の仏教界に「因縁や霊の祟りなんかありません」「因縁や霊の祟りというホラーストーリーを持ち出すのはカルト(異端的な新興宗教)です」と宣言して貰うことは無理かもしれない。
だが統一教会の問題を解決するには、多くの人が信頼する思想家・宗教家のような人が「因縁や霊の祟りなんてありません」と喝破することが必要なのではないだろうか?
仏教が広く(薄くだが)広がっている日本でカルトの問題を考える時、「お釈迦様であれば、因縁や祟りをどう考えたか」というところまで思考を遡らせ、正見(正しい見解)を見出す必要があるだろうと私は考えている。