昨日法制審議会(相続)が法改正の骨子を発表したことがマスコミの関心を集めた。私のところにも某ラジオ局から「夜の番組の中で10分程専門家のコメントが欲しい」という依頼が来たので知り合いの弁護士を紹介した。
その弁護士の話を聞いていると法律専門家の間でも新しく創設される「生存配偶者の居住権の内容がまだ明確でなく困ったね」という意見もあるというところが印象に残った。
およそ法律には事実後追い型と理念先行型があると思われる。事実後追い型というのは英米法的な考え方で既成事実で積みあがったことを法制化しようという考え方で理念先行型というのはある理念、この場合は「生存配偶者が遺産分割で住む場所を失う事態は避けるべきだ」という理念に基づいて「居住権」という新しい概念を持ち込んだと思われる。
しかしこのような権利の概念が一般に受け入れられるかどうかはもう少し見てみる必要がある。
半世紀ほど前に法学者の川島 武宜氏は「日本人の法意識」の中で「法律を作っても、それが現実に行われるだけの地盤が社会の中にない場合には、法律というものは現実にはわずかしか時には全く行われない」と述べている。
また明治の法学者穂積八束氏はフランスからコピーした民法を制定しようとする動きに対し「民法出でて忠孝滅ぶ」という言葉で反論を述べた。
生存配偶者にとって住む場所は大切だが多くの人が今まで住んでいた場所に住み続けるという前提でものを考えるのが実態に即していると判断して良いかどうかは疑問の残るところだ。夫(あるいは妻)を失った機会に老人ホームに移ることを選択する人もいるだろう。
また法改正では「介護寄与」についても従来より認める方向にあるようだ。だが介護する側も高齢化してくると寄与を認められるより、お金を払って誰かに介護を任せて欲しいというニーズもあるかもしれない。
高齢化社会における個々人のニーズは壮年社会より幅が広いのではないだろうか?
その幅広いニーズを法律で方向付けることはそもそも無理なのではないか?と私は考えている。
また仮に民法が改正されたとして、その内容を完全に把握することは現時点では専門家でも「困ったね」という状態だから条文や解釈が整ってきても多くの高齢者には内容把握がかなり困難なのではないだろうか?
悪いケースを想定すると新たな権利が生まれるだけ権利を主張して争いが増える可能性もあるのだ。
「民法出でて忠孝滅ぶ」をもじれば「民法変わって争い増える」のである。
自分や配偶者にとって「尊厳ある生き方」をしようと思えば、結局のところある程度の収入や取壊しに耐える資産を確保しておくことに尽きるのではないだろうか?そして出来るだけ子どもや孫の世話にならずに人生を全うするような準備をすることなのだろう。
もちろん準備をしたからといって子どもや孫の世話になることは多いと思う。だが準備をせず世話になったという思いを世話する人に残すのと準備をした上で足りないところの世話をしたという思いを残すでは残された者の思いは違うだろう。「出来るだけ世代で完結する」という思いを残すことがこれから続く高齢化・少子化社会では必要なことではないだろうか?