今日(1月11日)角川シネマ新宿にワイフと映画「禅」を観に行った。歌舞伎役者の中村勘太郎が道元を演じるまじめが映画である。朝一番の上映時間に行ったが、中高年の観客を中心に中々混んでいた。この手のまじめな映画としては、出色の興行成績だろう。
「道元」を観ながら感じたことは、映画全体を貫く禅の緊張感と道元の志操の高さの心地よさである。道元は遊女の子供の死に涙する人間としての優しさを持ちながら、修行には厳しい。また執権北条時頼の「寺院を建立しよう」をいう申し出にもきっぱりと断るほど世俗へ強い決別の意志を持っていて、これが混濁した世を渡っている我々には深山の清水のように清々しい。
道元は生涯、中国で出会った師如浄の教え「国王大臣に近づくことなく、ただ深山幽谷に居して一箇半箇を接得し吾宗を断絶せしむることなかれ」を守ったのである。
映画の中で道元は討伐した三浦一族の亡霊に悩まされる北条時頼に「現実をありのまま受け入れなさい」と教える。執権という権力を右手で持つ以上左手に殺戮という禍々(まがまが)しさも持たなければならないということである。その時示した和歌が「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」というものだった。道元の教えは「仏は人の心にある。その仏を見よ」というものでシンプルといえばシンプル。ただしシンプルということは容易に到達できることを意味しない。
映画の中で道元は死の少し前に仏教の根本的な教え八大人覚(はちだいにんがく)を説く。音声から漢字を想起するのが難しい言葉もあるが分かる言葉は分かる。最初は「少欲」次が「知足」だ。これは欲を少なくして足るを知るということだから、日頃の生活や仕事の上でもこの時期有用な警句だ。米国発の住宅バブルの崩壊などまさに少欲・知足の精神が欠如していたことによる。その後楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、勤精進(ごんしょうじん)と続いていくが、詳しいことは分からないので省略する。いずれにせよ「言うは簡単、行うは困難」なことであろう。
私に道元の清々しさは分かったが、しかし彼の教えが心の中にストンと落ちたわけではない。「座って座禅することが覚りそのものだ」という境地は頭で漠然と理解できても行動が伴わないのである。もし道元禅師が「座禅でなくても心身を没頭できることであればそれをしなさい。その時の心の喜びそれが悟りの境地である」と明言してたならもっと分かり易かったのだが。
明日は三連休の最終日。奥秩父の黒川鶏冠山を一人で歩いてみようと考えている。新雪を踏みながら寒気の深山を歩くことも心身脱落であると道元さんは言ってくれるだろうか・・・と思いながら。