金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

英雄のいる国いない国

2009年01月21日 | 政治

オバマが大統領に選ばれる過程や就任式を見ているとアメリカという国は古代ローマの政治制度を一番受け継いだ国ではないか?という気がしてくる。帝政以前の古代ローマは民主主義国家であったが、軍事的な危機などに際しては期限限定で、デクタトール=独裁官を選んで、内政・外交・軍事の大権を委ねる。古代ローマ人は民主主義は平時には機能しても、国家の危機に際しては機能しないことを知っていたのだ。また権力の座に一人の人が長く座り続けると弊害が出ることを知っていて独裁官の任期を短くしたのである。

アメリカの政治制度を作った人達もこのことを良く知っていて、大統領に大きな権限を与えるとともにその任期を最長8年に限ったのである。

オバマ大統領が直面する問題の大きさについては、過去数十年の中で最大級だということは総てのマスコミが述べているところなので、ここで繰り返す必要はない。

むしろ私はオバマとジュリアス・シーザーとの対比で考えてみた。タリバーンなどのテロリストとの戦いや核兵器を開発や拡散を試みるイラン、北朝鮮などを押さえ込むといった外交上の課題、あるいは世界的な不況、アメリカの医療保険の問題などの経済・内政上の課題を考えるとオバマのタスクの困難さはシーザーのそれに優るとも劣るまい。

シーザーは終身独裁官になる野望のゆえ凶刃に倒れたが、彼は当時もそして今も民衆から最も尊敬された英雄である。

塩野七生さんの孫引きだがイタリアの高校の教科書に次のような文章が出ているらしい。「肉体の健全、類まれなる寛容、説得力、知性、持続する意思(順番はオリジナルと異なると思う)を兼ね備えた人間は古来シーザーしかいない」

つまりこれらが西洋社会が認める英雄の徳目である。激しい選挙戦を戦ったヒラリー・クリントンを国務長官に迎えたこと、数億人をテレビに釘付けした就任演説、誰しもが認める教養と知性の高さ・・・などを見るとオバマはこの多くの徳目を持っていると私には見える。またアメリカの選挙民は「危機においていかなる徳目を持つ人を選び、国を委ねるべきか」ということを知っていたといえる。

無論彼が英雄の列に加えられるかどうかは今後の「戦果」次第であり、その「戦果」は運に左右されるところも大きい。そう、運もまた大きな英雄の条件なのだ。

眼を日本に向けてみよう。アメリカの政治制度が古代ローマの下流にあるように、日本の政治制度もまた幕藩体制や徳川政権の政治制度の下流にあると考えられる。それは何かというと「密室型合議制度」なのである。

スピーチを演説と福沢諭吉が訳すまで「演説」という言葉が日本になかったことで自明のとおり、日本では政治家・指導者が民衆の前で演説して人々を鼓舞することがなかった。(戦国時代に大名や大将が兵士を前に訓示したことはあるが、平和な江戸時代にはなくなった)

日本ではデクタトールは極めて少ない。織田信長位だ。近世・近代では井伊直弼や大久保利通が一時独裁的な権力を振るうが権限は小さい。彼等は「寛容」や「説得力」に欠けるので、ローマ基準の英雄には全く該当しない。そして何よりも当時も今も人気がないのが欠格条件だ。

危機に際して国家の命運を担うデクタトールを持てないことは、第二次大戦を見れば一目瞭然だ。東条英機の権限などヒットラーはおろかルーズベルト大統領の足元にも及ばない。恐らく米国の一方面司令官程度の権限しかなかったのではないか?そして彼も又当時も今も全く人気がない。

色々なことを述べて来たが、日本人は独裁者を頂くことが嫌いであり、日本とはそれが通ってきた国なのだということは理解しておいて良いだろう。通用してきたということは、国が存亡の危機に瀕することが少なかった・・・ということなのかもしれない。

数少ない危機であった幕末には何人かの「英雄」がバトンタッチしながら乗り切り、日中戦争から第二次大戦にかけてはリーダー不在のまま国を滅ぼしたのである。そう、そして戦後の混乱を立て直したのは良し悪しは別として進駐軍なのだから、日本人は良いフォロワーにはなれても、自ら英雄的なリーダーを選ぶことが苦手な国民である・・・ということは自覚しておいて良いことだろう。

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オバマが言った小さくて大きなこと

2009年01月21日 | 政治

昨日オバマ大統領が米国の44代大統領に就任した。就任演説のキーワードについて日経新聞は「新たな責任の時代が来た」「希望と善によって、我々は勇気を持って、来る嵐に耐えることができる」をあげている。これはまあ常識的なところだ。

一方ニューヨーク・タイムズはThe two little (Huge) things Obama saidという表題で二つのキーワードをあげている。小さな事柄だが、大きな意味を持つという訳だ。それらは過去の大統領が決して言わなかったことである。

一つは「無宗教」に言及したことだ。アメリカの大部分の指導者は憲法により保証された信仰の自由、つまり人々はキリスト教であれユダヤ教であれイスラム教であれ仏教であれヒンドゥ教であれ組織化された既存宗教を信じる自由、について述べている。しかし彼等はこれら以外の宗教の信者やまして無宗教者について言及することはなかった。

ところがオバマ大統領はWe are a nation of Christians and Muslims,Jews and Hindus,and non-believers. 「我々はキリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教、ヒンドゥ教そして無宗教者の国である」と述べた。

仏教徒は入っていないのはどうしてだ?というのは興味ある質問だがその回答はニューヨーク・タイムズには載っていなかった。単に仏教徒が問題になる程の人数がいなかったからかもしれない。あるいはオバマは釈尊が説いた仏教は一種の哲学であり無宗教と捉えるべきものであることを理解していたのだろうか?

話がわき道にそれたが、ニューヨーク・タイムズのコラムニストはオバマが無宗教を入れた理由は「我々は政治を絞め殺してきた非難の応酬や使い古びたドグマの終わりを宣言する」ということを言いたかったのだと解説している。

私の解釈を付け加えるならば「ブッシュ前大統領のキリスト教原理主義とは距離を置きます」という意味がこめられているのだろう。

二つ目はオバマが「コンコルドやゲティスバーグ、ノルマンディ、ケソンのような場所で戦いそして死んだ祖先たちに敬意を表する」といったことだ。何が過去の大統領と違うかというとケソンを入れたこと。ケソンは北ベトナムの戦力を過小評価した米軍が手痛い敗北を被ったベトナム戦争の悲劇の象徴だ。

何故オバマがアメリカ独立の象徴のコンコルドなどにケソンを加えたか?ということについてニューヨーク・タイムズのコラムニストは「恐らく海兵隊の勇気と自己犠牲の象徴としてあげたのだろう。しかし確信は持てない」と述べている。

私の勝手な解釈を加えると、米国の失敗の象徴のようなケソンも直視することが必要という意味でオバマは加えたのかもしれない。確信は持てないが。

コメント (2)
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