金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

政治家防衛相なら責任を負えるのか?

2012年06月06日 | 政治

民間人として初めて防衛相に就任した森本氏の人事を巡って、与野党から批判がでている。今週の時事放談を見ていたら石破元防衛相が「有事の際に国民の信託を受けていない民間人が政治的責任を負えるのか。防衛省のトップは政治家がやるべきだ」という主旨の発言をしていた。私は石破氏のねっとりした喋り方や風貌は余り好きになれないが、政治家としてはまともな方だと思っていたが、この主張には疑問を感じている。

まずざっとした疑問点を述べよう。

  • 防衛相に求められる資質とは何か?極論をすれば「防衛問題に暗い政治家=国会議員と防衛問題に明るい民間人を選ぶ」という二者択一を考えるならばどちらを国民は希望するか?
  • 我々は選挙で議員や政党を選んでいるが、その際有事の際に付託できる人あるいは党なのかという観点で投票を行なっている人はどれ位いるのか?
  • 防衛相の政治的責任とは何か?そもそも政治家の責任とは何か?
  • 有事の責任が問題になっているが、平常時の責任はどうなのか?

まず「戦争と政治」の関係について考えてみよう。「戦争とは異なった手段をもって行なう政治である」と喝破したのはクラウゼビッツであり、この延長線上で毛沢東は「戦争とは血を流す政治であり、政治とは血を流さない戦争である」と述べている。倫理的善悪の判断は別としてこれが世界の常識というものである。政治が軍事に優先するというのが、古来からの大原則であり、シビリアンコントロールという言葉はその現代的表現である。日本国憲法は「国際紛争の解決手段としての戦争」を明確に放棄しているが、世界の中には国益や自国の正義のための戦争を是とする国があることを忘れてはなるまい。もっとも健全な国は戦争が忌むべき最後の手段であると考えているとは思うが。

兵法の古典である孫子は全編を通じて、軽々しく戦争を行なうことを戒めていて、戦術は国家的戦略に服さねばならないことを強調している。例えば火攻編では「夫(そ)れ戦勝攻取して其の功を修めざるものは凶なり」と述べている。戦闘に勝っても、それを戦略的勝利に結びつけずだらだら戦争を続けるのは、国家にとって不吉な行為だという意味だ。

「防衛政策は内閣が最終的に責任を負い、自衛隊の最高指揮監督権は首相にある」ということはこのような文脈で考えるべきである。

次に「責任」ということを考えてみよう。米国が第一次湾岸戦争を始める時、時のブッシュ大統領は演説の中でResponsibity is fully my ownと述べていたことを思い出すが、これは戦争の最終的な責任は自分にあると意味だ。その意味するところは、戦争遂行に対する人的・経済的犠牲・負担を考慮した上で開戦に踏み切る決断を下すのは大統領である自分の責任であるという意味だろう。そして父ブッシュは再選されないという形で政治的責任を取った・・・ということなのだろう。

だがこれは最高指揮官に究極的に求められる「責任」であり、通常政治家に求められる「責任」は英語でいうとaccountabilityと呼ばれる「説明責任」の方ではないだろうか?「説明責任」とは医師や弁護士などクライアントに専門的アドヴァイスやサービスを提供する専門家の責任と説明されることが多い。彼等は「こういう方法を取るとこうなる可能性が高い」という形でクライアントに対処方法を説明する責任は負うが、治療方法等にミスがない限り、結果責任を負うことはない。

私は多くの場合、政治家に求められるののこの「説明責任」ではないか?と考えている。「細かいことは説明しないけど俺を選挙で選んでくれ。悪いようにはしないから」というのでは、民主主義ではないだろう。とするならば「防衛問題」についても説明責任を果たせるような人物が防衛相になるべきだというのが私の見解である。その人が民間人であるか政治家は第一の決定要因ではないだろう。

「選挙でえらばれていない民間人の政治的責任を負えるのか?」という議論は、多少筋は違うかもしれないが、「会社の重要な幹部は生え抜きでないといけない。中途採用で入った人やまして外国人に重責が担えるのか」という議論と似たようなところがあるのではないだろうか?いわば政治に命いや生活をかけている政治家と民間人では違うのだという政治家の自己防衛的な主張に過ぎないのではないか?と私は考えている。

例えばユーロ危機の中で頑張っているイタリアのモンティ首相。最終的な成果は分からないが、国家の危機に際して学者が機能したという例になるかもしれない。

要は高級官僚に問われるのは、私心なく国家の大事に臨む高潔で強靭な精神と聡明さ、そして実務的見識の高さなのである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貨幣空間に迫るリスク

2012年06月06日 | 国際・政治

「貨幣空間」というのは余り聞きなれない言葉だが、我々を取り巻く人間環境の一番外側にある世界だ。橘玲の「(日本人)」によると、個人の周りには家族や恋人などとの関係で構成される「愛情空間」があり、その外側に「知り合い」で構成される「政治空間」がある。そして一番外側に「貨幣空間」がある。「貨幣空間」はお金を媒介にして誰とでもつながるから、原理的にはその範囲は無限だ。つまり非常にグローバルな空間である。

「(日本人)」は貨幣空間では「市場の倫理」が支配していると述べる。その倫理とは「正直たれ。契約を尊重せよ。他人や外国人とも気安く協力せよ。」であり「勤勉たれ。節倹たれ。効率を高めよ。新規・発明を取り入れよ」というものだと述べる。つまり貨幣空間が維持されるためには、その基盤となる倫理観が共有される必要がある。

今日(6月6日)の日経新聞朝刊の「大機小機」(「ギリシャ問題と市場の動揺」)の中に次の一節があった。「われわれは、貨幣を媒介とした交換経済が正常に機能するのを当然のように思いがちである。しかし長い歴史をひもとけば、材質は紙切れや金属にすぎない貨幣が、交換手段として信任を得られるまでは、いばらの道であった。」

貨幣の歴史つまり市場経済の歴史は、メソポタミアなど古代都市文明国家で始まったから精々五千年程度だ。「(日本人)」によると「市場の倫理」に相対する概念は「統治の倫理」だ。権力ゲームの規範である「統治の倫理」とは次のようなものだ。

「目的のためには欺け」「復讐せよ」「排他的であれ」「規律を守れ」「伝統を堅持せよ」「位階を尊重せよ」

今の欧州通貨危機問題を見ていると、「市場の倫理」=貨幣空間と「統治の倫理」=政治空間の衝突が垣間見えてくる。経済環境が悪化し、人々が将来を悲観的に見る時、より本能的で情動的な「統治の論理」が頭をもたげ、理性的で合理的な(はず)だけれども後天的な「市場の倫理」に牙をむいているという構図だ。

これは貨幣空間特にユーロという歴史の新しい「人工的貨幣」(総ての貨幣は人工的だが)にとって大いなる脅威だ。「政治空間」からチャレンジを受けているのは、市場の倫理なのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする