先日大宮駅から新幹線で長野駅に行き、そこからバスで大町に向かった。
大宮で新幹線の通路側の指定席に座ろうとすると、窓側の中年女性が私の席に置いていた荷物を急いで片付けてくれた。「すみません」と小声で言いながら。「急ぎませんからゆっくりやってください」と普通はいうのだが、その時重いザックを担いでいて虫の居所が悪かったのか私は黙っていた。もっとも基本的に私は中年女性の他人の座席に荷物を置くような厚かましさが嫌いなのだが。
正午を回っていたので、座席に着くとすぐ駅弁を広げた。すると隣の女性も駅で買ったと思われるカツサンドをせわしなく食べ始めた。
ふと「この人はどういう人かな」と興味がわいた。連休の最中の一人旅。故郷の親御さんの具合が悪くて落ち着かないのだろうか?
あるいは連休中だけれど何か仕事を抱えているのだろうか?指輪はしていないので結婚はしていないのだろうか?いや結婚していても指輪をしていない人はいるだろうなどと勝手な想像を膨らますが、最初に私がぶっきら棒だったので、話を切り出す訳にはいかない。
それにたまたま新幹線で隣に座った位であれこれ話をするのはヘンである(若くて余程の美人なら別だが)。
食事が終わりしばらくすると女性は紙袋からノートパソコンを取り出し、スマートフォンでテザリングしながら、ファイルを開き始めた。
ちらっと見るとパワーポイントで作成された「個人情報保護」関係のプレゼンテーション資料が開かれていた。
そこで私は自分の推測を大幅に変更する。「この人は企業の内部管理の担当者かどこかのセミナーに講師で呼ばれた人かな?」「システム会社の人にしては少し地味だし、大体システム会社の人は複数で行くことが多いはずだ」などと想像を膨らませる。
それとともに「話をするきっかけ」を失ったことを若干残念に思った。実は私も来週ある自治体で「マイナンバーの講演」を行うので「個人情報保護」の話ならきっと有意義な情報を得られたかもしれないと・・・
そんなことを考えている内に長野駅に到着して私は重いザックを担いで新幹線を後にした。
これだけの話だが「一人旅はきっかけが大事」と改めて思った次第。もし最初に私が女性に「ゆっくり片づけてください」と一言優しい言葉をかけていれば、その後話をするきっかけはあったろう。
中年女性の厚かましさも好ましくないが、優しさの欠けた男はもっといけないと私は反省した。隣の女性はプレゼンの準備(予習?)で作業スペースが欲しかったのだろう。
仏教の六波羅蜜に「無財の七施」という教えがあることは知識では知っている。七施つは「和顔施」「愛語施」などだ。
その中の「和顔施」とは相手を思いやる柔和な笑顔を人に接することだ。言葉では分っていても我々はその時の自分の感情に支配されつい不機嫌が顔をしてしまうことがあるものだ・・・と改めて反省した。
七施の中には「捨身施」(人が嫌がる重労働などを進んで引き受ける)や「心慮施」(相手を思いやり、その立場を尊重して行動する)という教えもある。これらの教えはグループで山登りをする時など非常に役に立つ教えである。今回往路の一人旅の反省を踏まえて、登山中は多少「捨身施」や「心慮施」を心掛けたつもりなのだが、それが仲間に伝わったかどうかは分らない。
いや施し(ほどこし)などというものは、そもそも相手の理解という対価を求めるようなものではないのだろう。