金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

日本のデジタルバンキング革命はどのあたりから起きるか?

2019年07月01日 | 金融

世界のあらゆる産業界を揺さぶってきたデジタルトランスフォーメーション(DX)の波が少しずつ日本の銀行界にも押し寄せている。

デジタルトランスフォーメーションは「ITの浸透が人々の生活をあらゆる面で良い方に変化させる」という概念だが、銀行はDXのある段階に対する最大級の抵抗勢力だった。というのはDXの本質は「ITの活用により色々な情報を多くの参加者が共有することで取引コストを下げる」にあるのだが、銀行は「情報を囲い込むことを収益源にしてきた」からである。

DXには一般的に三段階あると言われている。第一の段階はITを活用して「生産性をあげるとともに処理工程の品質を向上させる」段階。実はこの段階では銀行は大いにIT技術を活用したし、トップランナーだった。つまりインターネットバンキングが普及する以前の実店舗とキャッシュをベースにした大量事務を巨大メインフレームで処理していた時代だ。

第二の段階は「インターネットを活用して情報を収集したり、取引を行う」段階だ。私が従来型銀行がDXの抵抗勢力だというのはこの段階だ。インターネットで検索エンジンを使い誰でも簡単にほぼ無料にデータを入手できるようになる前は、ある種のデータ入手にはかなりコストがかかった。銀行はそれらの情報を安く入手するチャネルがあったので、一般顧客に対して有利な地位にいた。だがインターネットの拡大は銀行の有利な立場を奪っていった。

最後の段階は「支払方法の劇的な変化が金融業の主役を変える可能性がある」段階だ。

これは中国の個人決済から考えるのが早い。中国ではAlipayなどのスマートフォンアプリがクレジットカードやデビットカードをすっ飛ばしてモバイル決済を行うところまできている。

中国ではスマートフォンを利用して飛行機や列車の切符を購入し、タクシーを呼びその料金を払う。ホテル代や食事代もスマートフォン決済だ。そこには膨大な消費者の活動記録がデータとして残されている。そしてそのデータを活用できるのは銀行ではなく、スマートフォン上で決済アプリを提供する会社なのだ。

少し銀行と情報という問題を考えてみよう。以前銀行は家計のメインバンクになることでその家計の情報をある程度把握していた。例えば給与の振り込みによりどこからどれ位の給料を貰っているかが分かり、電気代やガス代の支払いから生活水準が類推でき、それらの情報は個人ローンの判定上重要な情報だった訳だ。だがそれらの情報は、いやより正確な情報は銀行ではなく、決済アプリを提供する会社に移っていく過程にある。

中国の例はドラスティックだが、米欧諸国ではもう少し緩やかな形で銀行のDXが進行している。

米国ではミレニアル世代(1981年~1996年生まれ)の85%はモバイルバンキングのユーザである。実店舗時代の英米では消費者がメイン銀行を変えることは非常に少なかった。メイン銀行の変更はアメリカで8%、英国で4%起きているに過ぎなかった。これは英米の銀行預金取引が当座預金型であり、口座開設には信用力判定や小切手準備などの手間がかかったことが一つの要因だろう。

だがモバイルバンキングの場合はアプリの使い勝手などに釣られて取引銀行の切替が活発化する傾向にある。

米欧でもモバイルバンキングが起点になってデジタルバンキング革命が加速する可能性がある。WSJは「米欧でもモバイルバンキングはクリティカルマス~爆発的普及に必要な市場普及率、16%と言われている~に近づきつつある」と述べている。

中国はもとより英米に較べても、日本ではスマートフォン決済やモバイルバンキングは遅れている。

さてDXの点では周回以上遅れている日本の銀行界にドラスティックな動きはでるのだろうか?

出るきっかけがあるとすれば、第一段は今秋の消費税引き上げに合わせて実施される予定の「キャッシュレス決済のポイント還元」であり、第二段は給与の電子マネー化である。

もし給与の電子マネー化が進むと多くの銀行が足元をすくわれる可能性があると私は考えている。もっとも銀行の足元をすくうということは既存金融システムの不安定化を意味する。資金決済・キャッシュレスなど金融システムの効率化と金融システムの安定というトレードオフを考える必要があるから簡単には進まないだろうが・・・・

 

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「雨と詩人と落花と」~葉室麟の頂点

2019年07月01日 | 本と雑誌

週末に図書館でふと目に付いた「雨と詩人と落花と」という本を借り読み終えた。雨の週末だったので雨のタイトルに目が止まったのかもしれない。

葉室麟の本は何冊も読んでいる。良いな、と思う本もあるがそれ程でもないと思う本もあるが、この「雨と詩人と落花と」は非常に良かった。

実は図書館で本のタイトルを見た時、小説ではなくてエッセー集かな?と思ったが、見返しに貼られた帯を見ると江戸後期の詩人・広瀬旭荘の話だった。

葉室の小説では、架空の人物を主人公にしたものよりも、実在人物をモデルにしたものの方が良いと私は思っている。それは葉室の構想力の問題というよりは、単に私が「時代小説」より「歴史小説」が好き、ということの反映に過ぎないかもしれないが。

ところでこのエッセー風のタイトルは、広瀬旭荘の七言絶句「春雨到筆庵」の中の「桃花多き処是れ君が家 晩来何者ぞ門を敲き至るは 雨と詩人と落花となり」から来ている。

旭荘は二人目の妻となる松子の実家を結婚する前に訪ねている。その時詠んだのがこの詩だった。

「あの桃の花がいっぱい咲いているあたりに君の家がある。夕暮れ時に門を敲いて訪ねてくるのはだれだろうか それは雨と詩人と散る桃の花である」

広瀬旭荘が生きた時代は、大塩平八郎の乱が起き、異国接近に憂いを抱いて警鐘を鳴らした高野長英等が蛮社の獄で弾圧された激動の時代だ。

その激動の時代を兄広瀬淡窓や久兵衛、そして妻松子に支えられて旭荘は詩人としても才能を開花していく。

しかし江戸に出た旭荘が活躍を始めた時病魔が松子を襲い、松子は29歳でこの世を去る。

松子の早過ぎる死は悲しみを呼ぶ。しかし読後にはある種の爽やかな明るさがある。それはこの小説を通底する人の優しさとは相手を思いやる気持ちだということが伝わってくるからだろう。人を思いやる心が、限りある命を美しくしているのである。

「雨と詩人と落花と」は葉室文学の頂点の一つではないか?と私は考えている。

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