先週このテーマでその(1)をブログに載せたら結構トラックバックが寄せられた。読者の関心あるテーマと思われたのかもしれない。さて金融で日本がアメリカに勝てない理由の内一般的なものとしてザーッと思いつくものは次のようなことだ。
- ドルが基軸通貨である。
- 国際的な取引・クロスボーダー取引は英語で行なわれる。
- ハリー・マコービッツ(分散投資理論の提唱者)を元祖とする金融工学はアメリカで発達した。
- 株式市場の歴史が古い。
- 金融取引を支える弁護士・会計士・各種のコンサルタントやジャーナリズムが充実している。
- 投資教育が進んでいる
まだまだ勝てない理由を挙げることはできると思うが、これらについては自明のことが多いしそれなりの解説書もあるだろう。ここではもっと深い部分つまり日本人とアメリカ人の行動様式の違いといったことについて若干の私見を述べてみたい。
手がかりとするのはルース・ベネディクトの「菊と刀」である。「菊と刀」は1946年つまり第二次大戦直後の発刊されたので60年も前の本である。現在の問題を考える手引きにするにはいささか古い感じはするが、人間の行動様式や思考パターンは短期的に変わるものではないとすれば、有効な手がかりを提供してくれるとも考えられる。
以下菊と刀の中から私が金融問題を考える上でポイントになると思うところを抜粋してみる。
- 日本人は恥辱を原動力としている。・・・・恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。・・・みんなが同じ規則に従ってゲームを行ない、お互いに支持しあっている時には、日本人は快活にやすやすと行動することができる。(第十章 得のジレンマ)
- 日本人が詳細な行動の「地図」を好みかつ信頼したのには、一つのもっともな理由があった。その「地図」は人が規則に従う限り必ず保障を与えてくれた。(第三章 各々其ノ所ヲ得)
- 彼ら(日本人)は自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑に負かされる(第一章 研究課題-日本)
まとめて見ると日本人は誰かが作った「地図」(=行動様式)に従って行動することを好む。何故ならそれが期待される役割であり、その期待される役割に従えない時世間から批判される。それが恥なのである。
こう考えると私が銀行で過ごした相当な期間はやはり「恥の文化」に支配されていたと言える。つまり自分の銀行が取引先にどれだけ・どのような条件で融資をするか?を決める時リスクやリターンよりもまず他行とのバランスを考えるのが過去の日本の銀行のパターンであった。
1980年代のバブルもまた恥の文化の産物という側面がある。自分の良心や職業人としての専門的判断よりも他人の行動を規範として行動する傾向があるから、他人が株や土地を買えば高いと思っても買ってしまうのである。
また2003年以降の日本株の上昇相場は逆のパターンではあるが、同じ行動様式の弊害が出ている。つまり外国勢は日本経済の復活を素直に読取って日本株買いを進めたが日本人は仲間の日本人が買いに入らないので相場に乗り遅れてしまったのである。
地図があると日本人は強かった。1980年代後半日本の金融機関は旧大蔵省が書いた海図に基づき大挙して海外に押し出し、支店の山を築いた。しかし本国のバブルの崩壊とBISルールの変更をもってその護送船団はもろくも沈んでしまったのである。
金融における規制緩和とは国内の金融システムを地図のない世界に置くということだ。そこは経済合理性と将来に対する不確実性が渦巻く世界であり、伝統的な日本人にとって不得意な世界である。
英語は少し勉強すれば、仕事で使う程度のことはそれ程困難ではない。金融工学を勉強して実務で活用している日本人も増えているはずだ。商法や会社法も改正されインフラは整いつつある。しかし私は日本人の恥の文化が強く残っている限り、これからの金融という競争と不確実性の世界で日本企業が勝つことは難しいのではないかと考えている。金融はもの作りとは違い、大部分の日本人にとって不得意科目なのかもしれない。