最近のエコノミスト誌に「経済学者がブログを書く理由」を分析した記事があった。この記事の概要を述べた上で私がブログを書く理由を今一度自分で考えてみたい。
- 効用や利益の極大化を図る知的訓練を受けている経済学者が無報酬でブログを書いていることは奇妙に思われる。しかし経済学者のブログには需要があり、ブログの中にはIMFや連邦銀行のような影響力を持つ機関の人々の頻繁なアクセスを含み、毎日数千件のアクセスを受けるものがある。
- 経済学者に取ってブログを書く時間を出版やコンサルティングに使えば、報酬を得ることができる。デロング教授がブログで得る収入はサイト上のリンク広告収入だけでサーバコストをカバーするだけのものである。ブログを書く理由について、最もアクティブなブログの一つを書いているカリフォルニア大学のデロング教授は「ブログは知的な影響力を振るうゲームの場だ」と言っている。
- ノーベル賞を受賞した経済学者ゲーリー・ベッカーは2004年に法学者のポスナーと合同でブログを立ち上げているが、両者は彼等のサイトが「考えやアイディア、事実、イメージ、現地報告、学識の即時的なプール」となり得ると信じていた。
- 大学教授が無報酬でブログを書くことに多くの時間を費やすので、大学はこの行為が大学の価値を引き下げるのではないかと疑問に思うかもしれない。ブログを書くことと出版の生産性の間に直接的な関係があるという証拠はないが、最近のある研究は、インターネットが大学の教室を越えて知識を広げる可能性をもっており、それがかっては存在したエリート学校の競争力を失わせていることを示している。
- その研究によれば、1970年ではハーバード大学に移った経済学の教授は調査の生産性を倍増することができた。個人の生産性と大学の生産性の強い相関関係は80年代には弱くなり、90年代の終わりには消滅した。
- コミュニケーション技術はエリート学校の生産性の競争力を減少させたが、生産性だけが大学の成功を図るものではない。人気のあるブログを書く名高い教授は良い宣伝になる。優秀な学生は優秀な教授に学ぶことを求めるものだ。
- ブログを書く理由には私利もある。総ての経済学者が無報酬で骨を折っている訳ではない。ハーバード大学のマンキュウ教授は自分で書いた教科書をブログの中でしつこく宣伝している。またセッサー教授の場合は、マクロ経済の話題、典型的には中国に関する話題について毎日2,3時間ブログを書いている。毎週3千人の人がこれを読んでいるが、これは彼の最新の著書を買った人数よりも多い。ブログは経済学者のマイクロホンによる声をメガホンによる声に変えることができる。影響力の価値には値段が付けられないものがある。
私のブログは多岐にわたるので、ブログを書く動機も複数ある。一つは自分の考えや行動記録を電子的に蓄積しておく場所としてブログを使っているということだ。つまり電子日記、もう少し格好をつけるとDigital Archivesである。今ある業界紙に毎月寄稿しているが、原稿を書くときの資料になるのでこれは便利だ。
次に金融・経済に関する正しい(と私が信じる)考え方を読者に伝えたいということだ。それがもし読者諸氏の金融リテラシー向上に貢献するところがあれば職業人として冥利に尽きる。
同様に山を中心とした日本の美しい自然についてお伝えしたい。それが美しい日本の自然を守ることに多少なりとも貢献することができればまことに喜ばしい。 更に言えばこの美しい国を守るために一市民として政治的な提言も行なって行きたいと考えている。
しかしもっと初歩的には「自分が書いたモノが人に読まれることは嬉しい」という思いがある。これはマズローの欲求段階説では4段目の「承認欲求」(自分を認めて欲しいという欲求)にあたるものの様だ。きればこの欲求を一つ上の「自己実現の欲求」まで高めたいものなのだが。
「影響力の価値には値段が付けられないものがある」という言葉は著名な経済学者になってもなお「承認要求」があるということを示しているのだろうか?ブログを書く理由を見つめると人間が分かってくる・・・といえば言い過ぎだろうか。