金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

エコノミスト誌、サラ金問題で堂々の論陣

2006年08月14日 | 金融

最近のエコノミスト誌がサラ金問題で堂々の論陣を張っている。いきなり話がそれるが私はこの「堂々の陣」という言葉が好きだ。これは孫子の軍争編に出てくる言葉で「正正の旗を要することなかれ。堂堂の陣を撃つことなかれ」と対になっている。その意味は十分な準備をしている士気の高い敵をまともに攻撃してはいけないということだ。もし攻撃を仕掛ければ多大な損害を被る可能性が高いからだ。ビジネスの世界でも「正正の旗」「堂堂の陣」というものは大切だ。備えが甘く士気に欠けるところがあると、会社は色々な攻撃を受ける。例えば今はやりの買収の対象になったりするということだ。「堂堂の陣を撃つことなかれ」という言葉は攻守双方の点から覚えておきたい言葉だ。

さて本題のサラ金問題である。エコノミスト誌の論点は次のとおりだ。

  • 7月に与党が「貸金業制度等の改革に関する基本的な考え方」を発表し、上限金利の引下げに動き出した。これに対し強い反対意見を表明しているのは、日本のサラ金大手5社ではなく、日本でサラ金を買収したシティとGEである。
  • 彼等の論点は「上限金利を引き下げると引用収縮が起こり、消費の減退から景気が後退する」「上限金利を引き下げると、返済可能性が極めて高い借入人以外への貸出が行なわれなくなるので、サラ金から借入が出来なくなった人は闇金融業者~英語ではLoan Sharkローンの鮫という~から借入を行なうことになる」というものだ。また彼等はこの問題が日米間の問題にすらなると米国政府に情宣活動をおこなっている。
  • 上限金利が引き下げられたら日本の消費者金融会社に対する投資を減少させると言っているヘッジファンドや金融会社もあるということだ。

これに対してエコノミスト誌は米系金融機関の言い分を堂々と論破している。エコノミスト誌は「調査の結果、サラ金からの借入人はローンの借換のため別のところで借入を行なっているのが大半なので、たとえ消費者信用の収縮があってもそれが消費減につながることはない」といい、闇金融問題については「非現実的な話だ」という金融庁の意見を引用する。また米系金融機関については米国本土では得られないような高いリターンを今まで日本のサラ金への投資で得ていたのだから、上限金利が下がっても良いはずだと喝破している。

もっとも米系金融機関の言い分の内、個人信用情報の共有(現在は消費者金融系、クレジットカード系、信販系、銀行系の業態毎に信用情報を保有しているが、業態を超えた共有はない)提案についてはエコノミスト誌も支持している。

今日本の大手マスコミの中でエコノミスト誌程、この問題について正々堂々の意見を展開しているところがあるだろうか?

私は日本の消費者金融の問題点を次の様に考えているが、かなりの部分エコノミスト誌は私の意見をカバーしてくれている。日本のマスコミがこの問題について堂々の論陣を張らないことは消費者の利益を第一に考えるより特定業者の利益を慮っているといわざるえないのである。

  • 消費者金融からの借入金の半分はパチンコに費消されている。パチンコ業界ではパチスロという射幸性の高い遊戯台の人気がある。このため業界の売上高(玉貸料)は横這いながら、遊戯者の数は10年間の間に1千万人も減少している。
  • サラ金は迅速性や秘匿性を武器に高い金利を借入人から得ている。信用情報が業態を越えて共有されないことで、返済意思や返済能力の高い人までサラ金に高い利息を払わざるを得ない仕組みになっている。
  • 米系金融機関やヘッジファンドが買収したサラ金への投資で大きな利益を上げている。又パチンコの利益の一部が北朝鮮に流れていたことは周知のとおりだ。煎じ詰めると高い消費者金融の貸出金利をまじめに払い続けてきた日本の消費者は結果的にアメリカのファンドや北朝鮮まで利してきたという面がある。

それにしても日本の消費者問題まで海外誌の見識を利用しないと正しい姿が見えてこないとは何とも情けない話である。

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『三枚肉』の微妙な話

2006年08月14日 | 本と雑誌

今日(8月14日)はお盆の最中で朝刊は休み、電車も空いているので少し前にワイフが買った向田邦子の短編集「思い出トランプ」を読みながら会社に行った。『三枚肉』というのはこの短編集の中の小説のタイトルである。

粗筋はこうだ。ある会社で部長職を務める半沢は、以前の秘書大町波津子から結婚式の招待を受ける。以前波津子が失恋のショックから仕事のミスが増えた時、半沢は波津子を「事情を話してみないか」と食事に誘ったことがあった。食事の後波津子は半沢に「一つだけ甘えていいか」とゲームセンターへの同行を請う。ゲームセンターで波津子は「畜生」「馬鹿野郎」と呟き泣きながらスクリーンに向かって銃を撃ちまくる。その後二人は近くのパブを経て、魔がさした様に関係を持った。更に別の機会にまた関係があったが、深みにはまることを恐れた半沢はやがて波津子を異動させ二人の関係は終わった。

波津子の結婚式が無事終了したその夜、半沢の自宅に大学時代の友人多門が訪ねてきていた。半沢は多門と妻幹子の間に若い頃関係があったのではないかと疑っている。半沢、幹子、多門の三人は幹子が時間をかけて煮込んだ三枚肉をほおばる。草を食うだけの牛が肉と脂の層になっていくように「肩も胸も腰も薄い波津子も、あと、二十年もたてば、幹子(立派な体格)になる」と半沢は思う。「幹子がなにも言わないように、波津子もなにもしゃべらず年を取ってゆくに違いない」というところで小説は終わる。

以上が小説の粗筋だが、ちょっと感想を書こう。まずこの小説は「思い出トランプ」の中で出来栄えは中以下だろう。余りダイナミックでないからだ。「三枚肉」というタイトルも今ひとつピンと来ない。加えて私個人の経験からいうとちょっとリアリティに欠ける。つまり秘書と部長や役員の間でこのようなLove affairが起きるとは私にはにわかに信じ難いのであるが、これはモテナイ男のひがみというものだろうか?私自身秘書や部下の若い女性の個人的な悩みを聞くことがなかった訳ではないが、「部長、ステーキご馳走様でした。お話したらすっかり元気になりました。ご馳走様!」という程度で終わっている。これは私の秘書達の悩みが浅かったのかあるいは彼女達が健全だったのか、はたまた私に男としての魅力がなかったのか何れであろうか?

実のところ私は日本のサラリーマン会社では部長・役員などというものは構造的にモテナイ男でないとなれないポジションだと考えている。その理由は部長や役員を選ぶのは通常社長や人事担当役員であるが、彼等は自分よりモテル男に嫉妬を抱き、自分よりモテナイ男を部下に選ぶ傾向があるからだ。女性にモテながら組織の階段を登り詰めていくということは、小説はいざ知らず、現実には多くない話である。かくして一般的にはモテナイ部長・役員の再生産が行なわれるのである。

ところで向田邦子は秘書の波津子を痩せ気味で目鼻立ちの小作りな女性に設定している。「安いお雛様みたいな顔をした女の子」といった重役がいた。肌理(きめ)が細かいだけが取柄で、姿かたちのほうも、雛人形のように肉の薄い、洋服の似合わない女の子だった。という具合に。ここのところは私にはリアリティがある。私の経験では秘書とは安いかどうかは別としてお雛様のような顔をしているものだという印象がある。又私は向田邦子よりもはるかに痩せ気味の女性に好感を持っているので、もし私が波津子を描くならもっと好意的に描いたろう。

というようなことを思っている間に会社のある神田駅についていた。「思い出トランプ」は直ぐにワイフに返しておこうと思った。この様な小説集を何時までも読んでいると「何か思い当たる節でもあるのかしら?」とワイフに勘ぐられる懸念があるからだ。見に覚えのないことで嫌疑を受けるほどつまらないことはない。

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