「此処彼処」は川上弘美さんの自伝的エッセーだ。ブックオフで偶然見つけたので、会社の行き帰りに読んでいるところだ。このエッセーは数年前日経新聞の日曜版に連載されていた。時々読んでいたが内容はすっかり忘れていた。
川上さんの小説(「センセイの鞄」など)は読んだことがないが、エッセーは文庫本で読んだことがあった。川上さんのエッセーには春霞のような透明感があると僕は思っている。あるいはトイカメラで撮った写真のように、周辺がぼやけて、でも優しくて、レトロな味がある。
「此処彼処」の中に246号というエッセーがある。246号は国道246号のことだ。「お母さんづきあい」がうまくゆかなかった日、川上さんは車を運転して、どこだったか分からないけれど神奈川県の246号を入ったところの農家に出合った。そして農家の裏手の小さな空き地で、真珠ぐらいの小さな白いものを拾った。
それは臼歯だった。
川上さんは臼歯を持ち帰り、今も紅茶の空き缶に入れて持っている。
エッセーは「臼歯を見つけたあの瞬間のぞっとするような違和感を思い出したくて、わたしはときどき空き缶を振ってみる。空き缶の壁に軽く当って、臼歯はからりと音をたてる。人づき合いは、今も下手だ」と結んでいる。
これって本当にあった話なの?と思ったりする。この臼歯について川上さんは「色は少し褪せているが、虫歯の跡のまったくない、手入れの行き届いた、たぶんヒトの、臼歯」と書いている。
普通ヒト(つまり他人)の歯なんか拾って持ち帰り、長く手元に置くものかしら?気持ち悪くないかなぁと疑問に思ったりする。
でもこのちょっとした異様さが「人づきあいは、今も下手だ」と呼応している。臼歯を大事にしているような人は人づきあいにはなじまないような気がする。
恐らく僕は川上さんほど人づきあいは下手ではないだろう。少なくとも家族や友人はそう思っているだろう。だが時々一人の時間を楽しみたいと思うことがある。恐らく大部分の人と同じように。
そんな時僕は神代植物園や奥多摩の山を歩いている。臼歯を見つけることは無理だろうから、「此処彼処」をポケットに入れて行き、小さなベンチか切り株の上で読んでみようかなと考えている。