「延命治療」などという重たいテーマは苦手なのだが、昨日日経新聞が特集していた「医療・介護改革 本社提言」を読んでいて思うところがあったので述べてみたい。
「本社提言」によると「治る見込みがなく、死期が迫っている場合の延命治療について、中止に肯定的な答えが一般で7割、医療関係者では8割を超えた」
また「北欧では食事介護はするが、老衰の人に特に理由がない限り管を通した栄養補給はしない」と外国の例を示し、「延命治療について国民の関心を高め、政治家が超党派で議論を深めるべきだ」と結んでいる。
議論を深めて貰うことは大いに結構だが、私はその前提となる個人の死生観をまず見つめて欲しいと思っている。
最近読んだ「座禅ひとすじ」(角田泰隆著 角川ソフィア文庫)に教えられるところがあったので紹介したい。この本は日本の曹洞宗を築いた道元禅師達の業績を述べたものだが、平明な文章で道元禅師の思想が紹介されているので読みやすい。
54歳でこの世を去る道元禅師は前年から病が重くなっていた。この本には病名は書いていないが、別の資料によると死因は「瘍」ということだ。
「座禅ひとすじ」は愛弟子の義介を呼び寄せて語る道元禅師の言葉を紹介している。「今生(こんじょう)の寿命は、この病気できっと最期(さいご)だと思う。だいたい人の寿命には必ず限りがある。しかし、限りがあるといっても病気のままに、なにもせずに放っておくべきではない。だから、おまえも知っているように、私も随分、人に助けてもらい、あれこれ医療を加えてもらった。それにもかかわらず全く平癒しない。これもまた寿命であるから驚いてはいけない」
1253年8月15日中秋の夜。道元禅師は「また見んと おもいしときの 秋だにも 今宵の月に ねられやはする」との辞世の歌を残しこの世を去る。
「座禅ひとすじ」は「生死即涅槃。人間の生死(輪廻)は、そのまま仏の御いのちであり、もし生死を嫌うならば仏のいのちを失うことになる。また生死に執着するならば、これもまた仏のいのちを失うことになる。生死を嫌わず、涅槃(生死輪廻から脱することを)を願わず。この時はじめて真に生死を離れることができるのだ。」と解説する。
この文章は平明だが本当に理解することは簡単ではなさそうだ。むしろ道元禅師の義介に与えた言葉をそのまま受け止める方が理解しやすい。
当時としてできる限りの医療を受け(つまり一生懸命生きる努力をする)、それでも治らないと知った時はこれを寿命として受け止める(生死に執着しない)。
もし今日、道元禅師が死期を迎えられたと想像すると、禅師は延命治療をどう判断されただろうか?恐らくは不必要なまでの生への執着として拒絶されたであろうと私は考えている。
延命治療の問題とは、寿命とは何かという問題であり、それは医学的な問題というより、人の命とは何かという問題を、輪廻の中でとらえるという哲学的な作業を下敷きにしないといけない問題だと私は感じている。