今月中頃からネパールに旅にでる予定だ。主な目的はトレッキングとネパール支援団体代表として支援学校の状況視察である。他に毎度のことだが、幾つかのヒンドゥ寺院や仏教寺院にも参詣することになるだろう。
ネパールは宗教が濃い国だ。濃い宗教というのは、宗教に対する思い入れが深いということで人々が来世を信じて神仏を祈り、善行を積むなど積極的に宗教にコミットしていることを指す。宗教にコミットして疑うことがないから、多くの人は幸福な顔をしている。
と説明すると過去に同行した友人たちは一様に怪訝な顔をした。
「ヒンドゥ教や仏教な教えるような輪廻転生~良い行いをすれば良い来世に生まれ変わる~なんてありませんよね」と。
ヒンドゥ教が教える輪廻転生やキリスト教・イスラム教が教える最後の審判があるのかないのか私には分からない。
また分かろうとも思わない(考えたところで結論がでる話ではないから)。
ただし「考えても結論のでないことはそのまま信じる方が良い場合がある」とも考えている。脳科学者の中野信子氏は「何かを信じたら、そのまま信じたことに従い、自分で意思決定しない方が、脳に負担がかからず、ラクなのです。たとえば、宗教を信じている人の方が、そうでない人よりも幸福度が高いというエビデンスがあります」と述べている。
中野氏は「他人を疑うことは、認知負荷、つまり脳にかかる負荷が高い行為で疲れる。歳をとるとドーパミンの分泌量が減るので、脳が疲れる行為を積極的に取らなくなる」とも述べている。
歳を取ると人を疑い難くなるから高齢者が特殊詐欺にあうケースが増えているという説明も可能かもしれない。
「死んだらどうなる?」「死後の世界はどうなんだ?」ということは、脳を活発に活動させることが好きな人は考えても良いテーマかもしれないが、多くの人にとっては疲れを招くだけのテーマだろう。
ならば宗教の教えを丸呑みしてしまうのも一つの方法である。特にヒンドゥ教のように「人は死んだ後必ず何かに生まれ変わる~魂は永遠~」という建付けを信じてしまうと死を必要以上に恐れ、悲しむことはなくなる。
人生においては、疑わざるを得ないことが多い。情報化社会になるとその分疑わないといけないことも増える訳だ。
しかし人間の脳の疑う能力には限りがある。この限りある資源を有効に活かすためにはどうするべきか?
それは「疑うべきことを絞り込む」ことである。疑って答のでることを疑うということだ。
答のないことは疑うべきではない。孔子は「我未だ生を知らず焉んぞ死を知らんや」と言った。
人の寿命や死は答のある問いではない。そこは大きなものに委ねて、我々は答のある問に疑問を集中するべきなのである。
予め断っておくが私は日本の既存仏教をそのまま信じるのが良いというつもりは毛頭ない。
現存する日本の「仏教」に大半は実は仏教ではない。仏教を釈迦の教えという観点から見れば、ということだが。
「戒名」「高額の墓」「過度の葬礼」などは疑ってかかるべきものだろう。
私は死後の世界にも自己責任はついて回ると考えている。善行も非行もその人の責任であり、残された人が救うことはできない。そう考える方が論理的に完結するからだ。故に戒名料などの名目で多額の寄付を求める似非宗教集団には警戒心を強めることを勧めている。
ネパールの旅は私のこのような考え方を検証する旅でもある。