日曜日の午後9時からの「半沢直樹」を観ている仲間は多い。そんな仲間から時々「銀行ってあんなものなのですか?」と聞かれることがある。「話を面白くするため誇張はあるけれど、本質をついているところはあると思うよ」と私は答える。何が本質か?というと、多くの銀行員は少し組織の階段を登ると階段を登ることが目的と化する。組織の階段を登ることを「偉くなる」という人がいるが、これはもちろん間違いだ。偉い=greatとは人間的に立派になることを指す。組織の上の方にいる人が人間的に偉い人であることは理想論だ。本当に偉い人は組織の階段を登ることを目的とは考えずに「自分の信じるところを実現する手段」と考える。この理想論の頂点にはプラトンの哲人王の考え方があるが、実際の社会ではそのような事例は稀だ。
「半沢直樹」は娯楽番組なので、そこから小難しい人生論を学ぶ必要はない。だけど多くの人がチャンネルを回すには理由があると思う。私はその一つは組織の階段を汚い手段を使いながら登って行った人間が、半沢直樹に指弾され、結局組織を去らざるを得なくなることに観る人が溜飲を下げることにあると感じている。だがそれは単なる勧善懲悪ではない。
むしろ「自分の信じる夢を実現する」という本質を見失い、組織の階段を登ることを目的化した人間に対する複雑な想いがある、と考えた方が良いだろう。 それは「組織の言いなり、上司のいいなりにならざるを得ない(自分を含む)サラリーマンに対する同情」も含まれるだろう。
「自分の信じる理想を実現する」ために敢然と組織に立ち向かう半沢直樹はなりたくてもなれないヒーローなのだ。だからカタルシスを覚える。
だけど原作者池井戸潤の「悪者」に対する視線の中に、私は「そういう風しか生きることができなかった弱いもの」に対するある種の理解を感じる。
弱い人間であった我々は、しかし、ドラマの中の悪役ほどは悪いことをしなかったことにほっとしながらひと時を過ごすのである。