私はキリスト教徒ではありませんので、ミサに参加することはほとんどありません。しかし昨日は麹町の聖イグナチオ教会のミサに参加しました。
昨日9月11日はアメリカで同時多発テロが起きた日です。
21年前のこの日私がかってニューヨーク支店で一緒に働いていた仲間を含め5名の仲間の銀行員がワールドトレードセンターの爆発で亡くなりました。
仲間の発案で、9月11日に昔ニューヨーク支店で働いていた仲間が、聖イグナチオ教会に集まり、テロで亡くなった人の冥福を祈ることが続いています。
私は特定の宗教にコミットしていることはありませんが、教会やモスクあるいは座禅道場といった神聖な場所で瞑想のひと時を過ごすのは好きです。
心が鎮まるからです。
その中でキリスト教のミサが良い点はお祈りやお説教の中身が分かるという点です。
昨日神父は「ルカによる福音書」の中の「手の萎えた人をいやす」という一節についてお話をされました。私はキリスト教徒ではなく、聖書もパラパラと流し読みした程度なので、お話の趣旨を聞き違えているかもしれません。
でも感じたことを書きましょう。
聖書には次のようなことが書かれています。「律法学者たちやファリサイ派(古代ユダヤ教原理主義者)の人々は、訴える口実を見つけようとしてイエスが安息日に病気を癒されるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考え方を見抜いて、手の萎えた人に『立って、真ん中にでなさい』と言われた」
イエスは(律法学者やファリサイ派の人々に)「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と言い、(手の萎えた人に)「手を伸ばしなさい」と言われた。その人の手は元通りになったけれど、律法学者たちは怒り狂ってイエスを何とかしようと話し合った。
この後神父は「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われました。
このお話を敷衍して考えると律法学者たちは、律法の文字を機械的に解釈し、それが定められた目的を忘れてしまったのですね。それに対してイエスは「人の病気を治すことは律法で定められた安息日にはなにもしないという定めに優先する」と主張したのです。
あえて私見を述べると「萎えた手を治す」のは安息日でなくてもよい(緊急性は乏しい)と思いますので、ある意味イエスの行動は挑発的だったとも思います。こんなことをいうと教会の方からお叱りをうけるかもしれませんが。
しかし総ての宗教は己の信じるところを強く打ち出し、間違っていると思う人との摩擦を恐れない面があります。
イエスは律法学者たちの形式主義にがまんならかったのだと思います。
「人が安息日のためにあるのではない」の安息日を「規則」などに置き換えると我々の身の回りにも、規則に縛られて人間らしい生き方ができない事例は色々ありますね。