新聞等で賃金格差の話題を目にすることがめっきり増えた。しかもこれは日本だけではなく、欧米のペーパーでもよく見かける話である。グローバリゼーションと情報技術革新が先進国で勤労者間の格差を広げているのだ。エコノミスト誌(1月18日)もRich man, poor manというタイトルでこの問題を論じている。
- 先進国では企業利益は拡大してるがGDPに対する労働費の割合は歴史的に低いレベルになっている。また20年前米国の典型的な企業トップの報酬は平均的社員の40倍だったが、今は110倍になっている。数百人か数千人の企業トップがグローバリゼーションの獅子の分け前(不当な利益)を奪っている。
日本の大手銀行の場合、課長の年収が一般職の年収の3、4倍程度で頭取・社長クラスの報酬が課長の年収の2倍から3倍程度というものだろう。アメリカに比べると日本は実に格差のない国だと言える。
不当な分け前を奪うは原文ではSeize the lion's share である。これはイソップ物語から出た言葉である。そのイソップ物語というのは・・・・・ライオンとロバと狐が狩に出かけた。獲れた獲物を配分する時、ロバは三等分したが怒ったライオンはロバを食べてしまった。次に狐が獲物を配分することになったが、狐は大部分をライオンのものとして自分は僅かな分け前しか取らなかった。ライオンは満足して狐にどうして少ない分け前しか取らないのか?と聞いたところ、狐は「ロバの運命が私にこの分け方を教えてくれた」と答えた。
- この反動はあちらこちらで起きている。米国では下院が最低賃金の引き上げを可決したところだ。日本でも賃金の停滞と仕事が中国に奪われることへの警告が発せられている。
次にエコノミスト誌は格差の問題に対する持論を展開する。
- 格差(Disparity)は実力主義と全般的な経済発展が組み合わされると我慢できるものである。数十年にわたって米国はダイナミックな経済の方が平等主義的経済よりも全般的な繁栄の点でいかに優れているかを示してきた。A mobile society is better than an equal one.モバイルつまり階層間の移動のある社会の方が均一な社会よりも良いと主張する。
確かに階層の間に移動がある限り・・・しかも一回の人生の間で何回か「勝者」になる可能性が巡ってくるような社会であれば均一な社会よりも良いだろう。しかし問題は一度出来た格差が簡単に超えられるかどうか?という点だろう。この文章の論理にはやや飛躍があるような気がする。つまり「モバイルな社会←→移動がない社会」「格差のない社会←→格差のある社会」が対比されるべきで「格差がありかつ移動がない社会」という組み合わせもありうる。また移動も格差も程度とセイフティネットの有無を度外視しては論じられない。
- グローバリゼーションの影響を緩和する方法は技術革新の影響を含む経済的な変革を緩和する方法と同じである。競争面の優位性のシフトに合わせて人々が転職できるような仕組みを作ることである。それは一般的なスキルを身に付ける教育を行なうことであり、健康保険と年金を雇用から切り離すことである。そして理由はともあれ仕事を失った人に職業訓練と職探しの手助けをする政策を取ることである。
- 無論これは時間と金のかかる話だが、グローバリゼーションでメリットを得ている経済に支払原資を見つけることは容易だろう。
ところで日本の賃金格差について内閣府経済社会総合研究所の太田 清氏が「日本の賃金格差は小さいのか」という論文を06年12月に書いている。それによると
- 日本では賃金が年功的に決められており年齢間格差が大きい。
- 生涯賃金ベースで見た場合、日本は最も格差が小さい国である可能性が高い
- 日本で賃金格差は賃金の低い方が高い方より大きめである
ただこの統計的な事実が現在の若い人にとって共有されるものであるかどうかは疑問である。つまり日本は過去において生涯賃金の格差の少ない国であったが、これからは拡大傾向にあると見られるからだ。更に若い人にとって日本の大企業が余り魅力がない理由(02年のInternational Survey Reseachによると社員に企業へのコミットメントは主要国の中で日本が一番低く50でアメリカ67、中国57である)は『実力主義と経済的発展が実感されない中で格差が拡大している』ということだろう。
日本のサラリーマン社長の取り分は冒頭で見た様に精々一般職社員の10倍程度でとても「獅子の分け前」という程ではなく狐に毛が生えた程度だろう。では誰が獅子なのだろうか?答は外資系企業や一部の新興企業オーナー(その中にはもう直ぐ塀の内側に入る人もいるが)などが不当なまでに美味しいところを食べたということになるだろう。日本の伝統的な企業は上から下まで揃って余り儲からない商売に汗を流し、その中で若い人は成果主義というトッピングが乗った年功制のもとで不満を募らせているという構図になっている。
年功制というものは実力主義の正反対の概念ではないと私は考えている。つまり年功とは年齢と功績の組み合わせで生涯報酬が決まる制度であり半分は実力主義の要素が入っている。つまり年功制の時代から格差は存在したのだ。年功制の下では報酬はかなり時間がたってから昇進というような形で返ってくる。これを「還元」と呼ぶとすれば、今問題なのはこの還元率が以前よりかなり悪くなったことと還元の不確実性が高まったことだろう。これが日本の格差議論の根底にあるということだ。