エコノミスト誌に「がまんによる口封じ」Silenced by gamanという記事が出ていた。写楽風のさむらいがタオルかハンカチで猿轡をされている挿絵がついている。サブタイトルはThe world has admired Japan's stoic spirit. But there is a worrying side.「世界は日本のストイックな精神を賞賛しているけれど、ガマンには悩ましい面もある」だ。
同誌の主張は「被災地の人々が黙って耐えていることが長引けば、日本を活性化する拍車として振舞うことが少なくなる」ということで、被災地区の人々は力を合わせて中央政府から財政面のサポートを引出すべきだという。
確かに今まで「がまん」「忍耐」「頑張ろう」などと、被災者の人々の耐える姿を賞賛する報道が多かった。もっとも福島県を訪問した菅首相を避難者が「もう帰るのか?」と詰め寄る場面の映像を見たこともあるが、「怒り」が政治を動かす程に集約されていない・・・ということだろうか?
いやそうではあるまい。今月行なわれた統一地方選挙の結果を見ると、国民は「今の菅政権や民主党では日本復興はできない」と内閣不信任を突きつけているのだが、菅首相が辞めないと頑張っているということだ。
では何が菅首相の問題なのだろうか?個別具体的なことはその道で飯を食っている政治ジャーナリスト達に任せよう。例えば文芸春秋5月特別号で、浜口高明という人が「第三の敗戦A級戦犯は菅直人だ」という記事を書いている。その中で浜口氏は「事態の深刻さを察知した米国が事故の翌日に『できることがあれば何でも協力する』と米軍派遣の意思を伝達してきたが、官邸は断った」と書いている。
ただこの問題はそれ程単純に米国善玉・官邸悪玉といえる訳ではなく、多面的な事実分析が必要だと私は判断している。少なくとも私は何でもかんでも菅首相の責任にするつもりはない。
むしろ菅首相の問題は個別局面の判断の可否にあるのではなく、「本来下位の現場指揮官に任せるべきことを任せず、自分で誤った判断を下し、現場指揮官に任せてはいけないことを任せて大局を誤っている」というリーダーシップ理論の欠如にあると私は考えている。
孫子は国のトップと現場指揮官である将軍の関係において国のトップがしてはいけないことを3つ上げている。
それは「軍隊が進軍してはいけないことを知らずして進めと言ったり、退却してはいけないことを知らずして退却を命じたりすること」「軍隊の事情を知らずして、軍事行政を行なうこと」「軍の臨機応変の対応を知らずして、軍事命令を出すこと」である。
原発問題に即して言うと、放水を始める時間を指示するなどということは「臨機応変の対応を知らずして命令を出している」もので、数千年前から「国のトップとしてしてはいけない」ことなのだ。
一方するべきことでしていないものの一例について私は「復興構想会議に税の話を任せ、自分で方向を明確に打ち出さない」ということだと思っている。そもそも「復興構想会議」の他に政府には「被災地復旧検討会議」があり、民主党には「復旧・復興検討委員会」があり、どこがどのような責任と権限を持っているのか分からない。
この指揮系統の混乱は一旦横に置くとして「被災地復興を検討するメンバーに資金面の才覚をしなさい」という発想は余りにおかしい。「資金面については政府が知恵を絞って考えるから、あなた達は地域の復興プランに集中してください」というべきだろう。戦争でいうと第一線の指揮官に戦時国債の販売まで考えろというのと同じ。資金は国のトップが考えるべきことだ。
以上のようなリーダーシップの混乱について私はガマンの限界が来ていると感じている。
国民の不満と怒りのエネルギーを、再生と復興に振り向けるリーダーは出てこないものだろうか?