このところ某ロータリークラブのトレッキング同好会のオジサン達と山に行くことが多い。この前の三連休は常念岳から上高地、今週末はお休み(僕は高妻山へ行く予定)だが、来週は秩父の「関八州見晴台」に行く予定だ。
オジサン達は山が好きだ。オジサン達の山は僕の指向する山登りとは少しずれているのだけれど「偉かった人は山に登るべし」と僕の信念?に沿ってお付き合いしている次第だ。
無論「偉かった」というのは揶揄である。今(正確にいうと20年位前までか?)の日本では「人間的な偉大さ」と「実社会における成功」をごちゃ混ぜにして「偉い」といっているが、恐らもう少し人生観が成熟したく英米ではそのような言い方はしないだろう。
人間的に偉大な人についてはHe is great.というが、実社会で組織に上に立った人についてはgreatとは言わないだろう。恐らくHe was successful in business.とかHe had been promoted highly.などというのではないか?
小難しいことを言ったが、一緒に山を歩いている人が人間的に偉いかどうかを論じるのがこの文章の目的ではない。言いたいことは多少なりとも社会的に成功したと思う人は第一線を引いた後は「山に(でも)登るべし」ということである。
山に登る(別に山でなくて他のアウトドアスポーツでも良いのだが)のは幾つかの効用がある。
第一に会社や組織への拘泥がなくなる。第一線を退いてからも、会社や組織のことに口出しするのは老害以外のなにものでもない。
第二に家でゴロゴロばかりしていると奥さんに迷惑がかかる。
第三に山に登ると「何でも自分でしなければならない」ということが分かる。立派な装備や豊かな食糧を買い揃えても、それを担ぐ体力がないと重荷になるだけだ。「自分のことを自分でする」という当たり前のことを修行の根本に置いたのが禅宗の教えだ。道元禅師は「修証一如」とおっしゃった。「修」とは修行のことで「証」とは悟りである。「修証一如」とは修行の結果悟りが生まれるのではなく、修行そのものが悟りだということだ。
つまり真面目に山を登るということは禅の一形態であると僕は思っている(禅宗の偉い坊さんには叱られるかもしれないが)
いずれにせよ「偉かった」時は雑事を秘書や部下が片付けてくれた。だがある意味ではそれは自分をspoilしていたのだ。山はそれを見直す良い機会だ。
第四に「健康やreputation上悪いことをする機会を減らす」ということだ。健康に悪いというと例えば過度の飲酒。山に登った後もかなり酒を飲むので、オジサン達の山登りが本当に健康に良いかどうかは疑問が残るが、山に登らずに酒だけ飲んでいるよりはましだろう。
最後は「運が良ければ神様に出会うことができるかもしれない」ということだ。昨今山登りをする人が増えたので、夏の一般道では神様に出会うことはまずなくなった。だが運が良ければ早朝や嵐の後の太陽の光の中に神様を拝むことができるかもしれない。その時天地は何と偉大で美しく、自分は何と小さいかを感じることができるなら人生の至福というべきだろう。