ネパールを歩いていて「人生は川、人生は山」だと改めて思った。人生は川なんていうと歌謡曲ぽっぃイメージがするかもしれない。しかし氷河の末端で生まれた小さな流れが、時に岩を噛む激流になり、時に大地をうるおす優しい流れになりながら、下流に向かいそして大海に向かう姿を想像すると人生は川だ、と思う。
氷河の末端で生まれた小さな流れは下流に向かう。
鴨長明は「行く川のながれは絶えずして、しかも本に水にあらず」と言い、孔子は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」といった。
写真はシャブルベンシ付近のトリスリ川だ。その上流はチベット高原につながっている。ヒマラヤ山脈はネパール・中国の国境よりここでははるかに中国側に入っている。
もっともヒマラヤの北側におちる水もヤルンツァンポ川となりチベット盆地を西から東に流れた後、ヒマラヤ山脈の切れ目で大きく向きを変えてガンジス川につながっている。
ヒマラヤ山脈から流れ出る総ての水はガンジスにつながり、インド洋へと帰っていく。
ヒンドゥ教徒は終焉の場所を、ガンジス川に求めた。ネパールではカトマンドゥのパシュパティナート寺院の川べりで火葬の煙が絶えない。
川に投ぜられた骨ははるかな旅をしてインド洋に帰っていく。
総ての川が注ぐ大海が、輪廻転生のるつぼなのか?永遠の涅槃のやすらぎなのか?はたまた苦悩と試練の場なのか?
それはその人の人生観・宗教観によるだろう。
ただ総ての命は海に向かって流れている。大小総ての川の流れが海に向かって流れるように。総ての命はその限りある命を燃焼させながら、命の幹という大河を通じて、命の源である海に帰るのである。