8月24日の新聞朝刊「経済教室」は「介護難民 防げるか㊤」でした。
話の大部分は「医療・介護の構造改革」など制度面の話でしたが、最後に筆者(高橋 康 国際医療福祉大学教授)は、「北欧型の老い方や死に方を一つの手本に」という提案を行っていました。
この提案をベースに「生涯学習の一つの目標は老い方・死に方を学ぶことにある」という話をしたいと思います。
高橋教授は次のように書いていました。
- 若年人口の急速な減少と膨大な債務を抱える国家財政を考えると、「提供側の構造改革」だけでは不十分である。
- 介護資源消費量を減らすための「利用者意識の改革」が必要で「北欧型の老い方・死に方」が手本になる。
- 北欧では自らの口で食事をできなくなった場合、嚥下訓練が徹底的に行われる。
- しかしそれでも食べることが無理な場合は、無理な食事介助は行わず自然な形でみとることが一般的である。
- その結果北欧では寝たきりの高齢者はほとんどいない。
高齢化が進んだ結果医療と介護に振り向ける資源が乏しくなったので、北欧では終末期の延命治療は行わないという社会的コンセンサスが進んだわけです。
ただし利用者(高齢者)側は国民経済的な理由だけでは納得いかないでしょう。欧州の高齢者は「人生は楽しむものであり、楽しむことができなくなった以上生きている意味はない」という論理で経管栄養補給などの延命治療の廃止を受け入れたのだと私は思っています。
日本でも高齢者が延命治療の廃止を受け入れるには、このような高齢者側の論理が必要だと思います。
その論理としては「人生は楽しむものである」という論理の他に輪廻転生を教えるヒンズー教や上座部仏教の考え方があります。
輪廻転生論によれば、生き物はこの世の行いにより、必ず「六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)」のいずれかに生まれ変わります。肉体は滅ぶけれども、それはこの世における脱け殻であり、命は永遠に続くと彼等は信じています。
従って死は嘆き悲しむべきものでも忌避するべきものでもありません。
もっとも現在の日本人には輪廻転生論をそのまま信じている人はほとんどいないと思います。いや正確にいうと古来日本人はインド思想の中核を占める輪廻転生をほとんど信じていなかったと私は考えています。輪廻転生の考え方に立つと日本のお盆は成立しません。お盆の間に先祖の霊が帰ってくるとすると、その間先祖の魂が転生した生き物~人であれ犬であれ~はどうなるのでしょうか?
つまり日本人は亡くなった人は何かに生まれ変わるのではなく、祖霊は比較的人里近い森のようなところにいると考えていたのです。だから迎え火で魂を迎えることができたのです。
ところが都市化が進み日本では祖霊が暮らすと考えられていた森は遠くなってしまいました。お墓も遠くなり時には散骨のようにお墓がない場合もあります。
インド人は輪廻転生の確信の上に遺体をガンジス川に流しますが、散骨する日本人の総てが輪廻転生を信じているとは思えません。
「死んだらどうなるか分らない」のが多くの日本人の思いでしょう。そこからできるだけ死にたくない、と本人も回りの人も考えて延命至上主義につながると私は考えています。
恐らく欧州人は死んだらどうなるか分らない(キリスト教徒は分っているはずですが、キリスト教徒でない人も沢山います)ので、「この世を楽しく過ごす」ことでこの問題を乗り越えたのではないか?と私は考えています。
「死んだらどうなる?」という問いは「生きてきた意味は何なのだ?」という問いと対になっていると思います。頭でっかちになってしまった私たちは輪廻転生をそのまま受け入れることはできません。
しかし次のように考えることはできます。一人一人の命は限りあるけれど、遺伝子の連鎖という点で考えると、遺伝子(=情報)というものは命の誕生から今日まで切れることなく続いています。そして将来に続いてい行きます。我々は遺伝子というバトンを運ぶリレーの一走者なのです。それが命の意味です。リレー走者は前後不覚に陥る前に次の元気な走者にバトンを渡す必要があります。
川を遡り、産卵する鮭は産卵が終わると死にます。鮭は自らの体で運んできた森の豊かな養分を再び川に返すことにより、資源の循環の輪を担っています。親鮭の体は川虫に食べられるでしょうが、その虫は鮭の子どもやその他の魚のエサになって、命の循環を担います。
もしこのような命の循環を輪廻転生と呼ぶならば、輪廻転生は宇宙の真理と呼ぶことができると思います。
もっとも無理に輪廻転生と呼ぶ必要はないでしょう。
大切なことは自分なりに「納得する命の意味」を見つけることです。そうして確信することです。そうすれば回復しない肉体にしがみつくことはなくなると思います。
介護制度の利用者側の意識改革はこのような確信をベースにするものでないと私は非常に居心地の悪いものになると思っています。