金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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韓国の哨戒艦「天安」沈没、北朝鮮犯人説、次はどうなる?

2010年04月23日 | 国際・政治

4月22日韓国の通信社Yonhapは「韓国軍情報部は先月黄海で突然沈没した1200トン級の哨戒艦天安は北朝鮮の意図的な攻撃で沈没したと発表した」と報じている。ただし韓国政府は正式なコメントを控えている。

天安の沈没原因については、米、英、オーストリア、スウェーデンの専門家の支援を受けて韓国軍が調査を行っていた。ワシントンの保守系シンクタンク・戦略国際問題研究所は4月22日に次のように解説を行っている。「今のところ北朝鮮が天安を攻撃したという明確な証拠はない。沈没した船を引き上げ調査した結論は、外部からの爆発により天安が沈んだということである。また衝撃の度合いから見て、朝鮮戦争当時の残留機雷による爆発とは考えられない。調査に関わった人々はオフレコベースだが、北朝鮮の魚雷が関与しているのではないかという強い疑念を持っている。また最近の世論調査では韓国人の8割は北朝鮮の攻撃で天安が沈んだと信じている」

韓国最大の新聞・朝鮮日報は「魚雷攻撃を否定する人は何を恐れるのか?」というコラムで北朝鮮による魚雷攻撃説を支持している。ご関心のある方はこちらへ → http://www.chosunonline.com/news/20100421000048

この件について沈黙を守っていた北朝鮮は4月17日に「沈没原因の究明ができなかったので、韓国の保守系政治家が北朝鮮を犯人に仕立てている」とコメントで関与を否定している。だがこの北朝鮮のコメントをそのまま受け取る人は事件に詳しい人の間ではほとんどいない。

仮に北朝鮮が天安の沈没に関与していたとして、その目的な何なのだろうか?

戦略国際問題研究所はこの仮想的な質問に次の4つの可能性を示している。

「2009年黄海で韓国・北朝鮮の艦船が遭遇した発砲事件で北朝鮮兵2名が死んだことへの不釣合いな報復」「保守的で北朝鮮に不関与政策を取る韓国政府を支援を引出すための交渉に引出すための高圧的外交」「韓国や近隣諸国に対し最近強化した北朝鮮の海軍力の誇示」「北朝鮮政権内部で混乱が起こり、強硬路線派が示威行動を示した」

韓国・米国政府とも正式に北朝鮮が天安を攻撃したと表明していないので、今のところ韓国側から報復攻撃にでる可能性は極めて低そうだ。エコノミスト誌によると戦争を煽るような動きはほとんど国民の支持を得ていないということだし、株式市場も落ち着いている。

ただし、今後もし北朝鮮が天安を攻撃したという確定的な証拠が出たらこのまま収まるのだろうか?韓国・北朝鮮の間でこれだけ大きな死者が出た事件は1987年の大韓航空機爆破事件以来のこと。

過度に大騒ぎをすることはないが、我々の直ぐ近くに「核武装した非常に危険な国がある」という事実だけは冷静に受け止める必要がある。

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閉塞感の本当の理由は何だろう?

2010年04月23日 | 政治

今日(4月22日)の日経新聞朝刊のコラム「大機小機」は「1億3000万人の生命・財産を守る」というタイトルで次のようなことを述べていた。「日本の政治・経済が現在のような混迷に陥り、国民の多くが閉塞感に捕らわれ、将来への展望を見いだしえない状況は、日本の近代史においても未曾有のこといえよう。・・・・しかるに最近の安全保障政策の混乱は、日米同盟を極めて不安定なものにしてしまった。」

このコラムを読むと昨年誕生した民主党政権が、日米安全保障問題を混乱させた結果、財政再建等の重要な政治課題への取組ができない。それが閉塞感の原因であるという主張に見える。しかしこれはモノゴトを過度に単純化した議論というべきだろう。

私は民主党が掲げる幾つかの政権公約に反対する者だが、政治・経済の混乱や国民の閉塞感を総て民主党の責任にするような主張には組することができない。政治・経済の混乱や閉塞感は、日米同盟が安定していた自民党政権時代から続いているものだからだ。また米英等多くの先進国は、程度の差こそあれ現政権に対する批判勢力が強い上、国民の閉塞感が高いことは周知の事実だ。

今閉塞感が少ない国は中国、インド等の発展途上国であることを考えると、閉塞感の有無は経済成長速度と強い相関関係があると考えられる。

ところで「国民の満足度」などという世論調査を見る場合、どこが行った調査か?ということが重要である。日本ではマスコミが行うことが多いが、サンプル数が少なくバイアスがかかりやすいという欠点がある。米国では独立系のPew research などの調査会社が行う世論調査は信頼性が高い。そのPew researchからG20国に関する比較調査を拾ってみた。

まず「家計収入に対する満足度」である。日本では「満足・ある程度満足する人」が57%で20カ国のちょうど真ん中である。因みに一番満足度の高い国はインドで91%の人が満足している。また満足度が一番低い国は韓国で満足している人は41%に過ぎない。

次に「国の経済状態に対する満足度」を見よう。日本の満足度は10%で20カ国中韓国について2番目に低い。この満足度は2009年時点のものだが、2007年の満足度は28%だった。また2002年の満足度は僅か6%だった。リーマンショックをはさんで先進国の「国の経済状態に対する満足度」は押しなべて低下しているが、もう少し長いトレンドで見ると、2004年頃から景気が回復していくとともに、満足度が上昇し、リーマンショックをはさんで再び悪化したと判断できる。

ところで2000年代中頃の景気回復は小泉政権の規制緩和政策の成果なのだろうか?それとも米国が牽引した世界的な好景気の影響なのだろうか?恐らく双方が寄与したのだろう。少なくとも規制緩和政策に過度の評価を与えるは間違いかもしれない。

またそれと同時に規制緩和政策に「貧富の格差拡大」の原因を求めるのも間違いである。

このことについては昨年10月に厚生労働省が「相対的貧困率の推移」を公表しているが、それによると、1997年の14.6%だった相対的貧困率は200年に15.3%に上昇し、2003年には14.9%に下落して、2006年には15.7%に上昇している(括弧内はいずれも調査対象年度)。

つまり相対的貧困率も又景気動向の影響を強く受けていると考えるべきなのである。

話はそれるが日本の相対的貧困率は、OECD諸国の中でメキシコ、トルコ、米国についで4番目に高い。このことをもって日本は非常に格差が大きい社会だという議論があるが、この主張は日本の賃金構造の特殊性を見落としている可能性がある。つまり日本は他国に較べて、若年層の所得が低く中高年の所得が高い。つまり同世代間では比較的賃金格差は小さいが世代間では賃金格差が大きいというのが、日本の特徴であり、これを持って日本は非常に格差が大きいと判断すると、政策対応を間違う可能性があると私は見ている。

次に「国の方向感に対する満足度」を見ると、日本は25%でOECD中8番目。中国の87%、インドの53%を除くと総ての国が5割以下である。またここ数年間満足度に大きな変化がない。

以上のような調査結果を見ると日本人は「個人の経済状態についてはそこそこ満足しているが、国の経済状態については非常に不満を持っている」ということが分かる。そして他国との比較で見ると、国の経済状態に対する満足度は絶対的な所得水準ではなく、経済成長性に強く影響を受けることが分かる。

それを敷衍して考えると、経済成長促進政策を取ることが閉塞感を打破することにつながると思われる。そして経済成長政策と貧富格差の拡大は必ずしも比例するものでないことが分かるのである。

繰り返しになるが、諸般の問題の原因が総て鳩山内閣にあるなどという主張は政治的意図を持った暴論としか言いようがない。むしろ問題は精度の高い世論調査などを通じて、国のあるべき姿を真剣に議論してこなかった政治家やマスコミ総てにあるというべきだろう。

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英会話学校ジオスの破産、ある意味では当然の帰結

2010年04月22日 | 英語

昨日(4月21日)英会話学校ジオスが75億円の負債を抱えて自己破産した。授業料を先払いした生徒の方には気の毒だが、英会話学校の破綻はある意味では当然の帰結であると私は考えている。

何故なら「英会話学校で英会話を学ぶ」というのは、費用対効果から見て非常に効率の悪い英語の学習方法だからだ。

私は余程耳の良い人かかなり若い人を除いて、耳から言葉を覚えることには限界があると思っている(これは私のヒヤリング能力が低いことによる偏見かもしれないが)。

つまり私は「知らない言葉は聞き取れない」と考えている。だから知っている言葉を増やすことが英語の力をつける早道であり、知っている言葉を増やす早道はものを読むことである。一番良いのはインターネットで無料で読めるニューヨーク・タイムズ(その内有料になる予定)など、クオリティ・ペーパーを読むことである。

英会話を学ぶ目的をはっきりさせることも重要かもしれない。英語を使って取引相手と複雑な交渉をする必要があるなら、英会話学校に通うより個人レッスンを受けるべきだ。ただ一般的には英語でビジネスを行うことは、日常会話を行うよりはるかにレベルが高いと思っている人が多いと思うが、私から見るとそれは誤解である。

ビジネスには専門用語というものがある。例えば私が専門とする金融分野でこれだけは押さえておきたいという英語の専門用語は千位ではないだろうか?つまりこの程度の専門用語を押さえておけば、金融の場合は9割以上のビジネスを英語でこなすことができる。

私は逆に日常会話こそ難しいと思っている。例えば「お腹がしくしく痛む」時医者に何と言えば良いか私には分からない。だがこれは海外に暮らすか、一人で長い海外旅行をする時に必要な話。「英語で病状を説明する」ことを解説する本があるから手元において置けばよい。

このように考えると英会話学校は英語を英語力をつける上で非常に費用対効果の面で効率が悪いシステムなのである。経済合理性からみて破綻は不可避だったと私は考えている。

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郵便の本業まで民営化したスウェーデンから学ぶこと

2010年04月22日 | うんちく・小ネタ

今日別のエントリーでスウェーデンの福祉の話を書いた。ついでといっては何だが、スウェーデンの郵便事業の民営化状況についてもちょっと資料を見たのでその話をしてみたい。

日本では亀井郵政・金融担当相と原口総務相が「ゆうちょ銀行とかんぽ生命保険の完全民営化は撤回。持ち株会社に郵便局と郵便の両事業を統合し、郵便と貯金、保険の全国一律サービスを課す」仮称郵便改革法の骨子を示したところだ。

この法案で「人質」になっているのが、全国一律の郵便サービスだ。つまり不便な場所まで均一料金で郵便事業を行うと赤字になるから、金融事業の利益で補填しないといけないという主張なのだ。

ところで国情やサービスレベルが違うので、単純な比較はできないけれど、スウェーデンの郵便局(ポステンという)は1993年に独占権を失い、民営化され、かつユニバーサル・サービス(全国一律の郵便サービス)を提供しながら、なおかつ利益を上げているという事実がある。

スウェーデンの郵便の歴史は古い。ポステンが設立されたのは1636年だから日本でいうと江戸時代の初期、島原の乱の起きる1年前のことだ。さてそのポステンだが1993年に普通郵便について独占権を失った。なお小包や大量メールについてはそれ以前に自由化されていた。

自由化から15年経った2007年現在、ポステンのシェアはどうなったか?というと、91%のシェアを維持している。スウェーデンには30社を越える免許を受けた郵便業者がいるが、多少なりともポステンの競争相手となりうるのはCitymailという業者だけだ。

なおポステン以外の郵便業者は、ユニバーサル・サービスの義務はない。このため当初は僻地配達の義務のあるポステンが不利ではないか?という予想もあったようだが、結果は事実上ポステンの一人勝ちが続いている状況だ。その理由は手紙の発信者が都会部向けの郵便と僻地(ユニバーサル・サービス対象)向けの郵便を仕訳する手間を敬遠することや、ポスタルの大量処理システムのコスト優位性が優るということだろう。

また2000年代に入ってポスタルが傘下の郵便局のアウトソースを進めたことも大きいだろう。ポスタルは小型郵便局の業務を、ガソリンスタンドとかキオスクあるいはその他の小売店に委託した。ポスタルが直営しているのは都会部の400弱の郵便局のみである。

スウェーデンは人口の大部分が、数少ない都市部に住むという郵便事業から見ると効率的な?市場なので黒字が確保できるという主張があるだろう。私も日本の郵便事業の細かい収支分析をしていないので、どこをどう改善したら黒字化するという具体案を持っている訳ではない。

しかしスウェーデンの郵便改革は幾つかのことを示唆してくれる。

まず郵便事業を独占化しないとユニバーサル・サービスが確保できないというのは硬直的な考えに過ぎないということだ。国は最低1社の郵便業者とユニバーサル・サービス契約を交わせば良い。そしてユニバーサル・サービス義務を負う業者はコスト面で負けるという先入観も見直す必要がありそうだ。郵便局(正確にいうと切手販売や窓口集配を行う「郵便局会社」)の業務をコンビニエンス・ストアなどに委託するというのも、有効なコスト削減策だろう。

私は日本でこのような抜本的な改善策が出てこない理由は「郵便局の存在を前提に、あるいは郵便局を存続させるために郵便サービスを考えている」ことにあると思っている。そのような論理を展開すると、赤字の郵便業務を助けるために郵貯や簡保の限度を拡大するという転倒した暴論がまかり通るのである。

まずどうすれば郵便事業が単体で黒字になるか考える。コスト削減を徹底しても黒字にならないなら、郵便料金を引き上げるか、国が特定地域向けの集配送に補助を出しても良いだろう。

だがもう少し先を見ると私は郵便はなくならないまでも、相当部分電子メールやブログ、ツイッターなどの電子媒体に取って代わられると考えている。またエコロジーの観点からそれを推進するべきだと考えている。郵便取扱量の減少を避けることはできないのだ。それにともない郵便事業のサービス・レベルの見直しも課題になるだろう。

スウェーデンでは土日の集配はお休み。郵便の集荷は一日一回という。急ぐものは電子メールで送り、急がないけれど自分の味を伝えたいグリーティングカードなどは郵便で・・という住み分けが出来ているのだろうか?ただしこれは私の推測に過ぎないが。

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セーフティネット、米・北欧型の折衷は可能なのか?

2010年04月21日 | 社会・経済

今日(4月21日)の日経新聞朝刊の「経済教室」は、「日本の政策体系は、フランス型の保守主義レジームと米国型の自由主義レジームの折衷から、スウェーデン型の社会民主主義レジームと米国型の自由主義レジームの折衷に移行すべきだ」と主張していた。

政策体系というと非常に幅が広いが、ここでは「社会政策体系」という意味で使われているので、以降社会政策体系とする。なお社会政策という場合に狭義には社会保障政策を指すが、ここではより広義な「労働、教育、住宅等を含む社会政策全般」という意味で使う。

私がこの論文を読んで問題を感じた点は次の2点である。一つは「社会政策体系はその社会の伝統、共有される価値観、宗教観と整合するものでないと定着しないが、その視点が欠落している」という点だ。

もう一つは「スウェーデンのような高い税金(含む社会保険料)を通じて所得再配分を図る社会政策を『社会民主主義』と呼ぶことで、スウェーデンの思想基盤を誤解する危険性はないか?」という点だ。

まず前者について述べよう。米国型の自由主義レジーム(形態)の根底には「自助努力の精神」があるが、それと同時に「キリスト教的な隣人愛やその具現としての喜捨」がある。無論富める者が貧者に喜捨することを勧めるのは、キリスト教の専売特許ではなく、イスラム教も仏教も重視している(もっとも今の日本の仏教は葬式仏教化し、喜捨の重要性を説くことを忘れている)。この喜捨の精神がボランティア活動につながり、国による社会保障を補完している訳だ。

もう一つ米国の自由主義レジームを考える場合見落としてはならないことは、才能や運に対する宿命論的な考え方であると私は考えている。才能のことを英語でgiftというが、これは「神が与えてくれたもの」という意味だ。つまり非常に大きな社会的成功につながる才能というものは、努力によって得られるものではなく、神から与えられた天賦のものという考え方だ。

また事業に成功したり失敗することも個人の努力だけでなく、運不運によるところが大きく、その運不運とは人間の推し量ることができない神の意思による・・・とする考えがあると私は考えている。このように考えると成功した人はその成果を社会に還元するべきだし、失敗した人にも立ち直りの機会を与えるべく、過度の負担は求めないという思想が生まれてくる。

一方日本では「因果応報」の考えが強いため、努力する=成功する、失敗=努力していないという構図を描く傾向が強い。日本の成果主義が失敗する原因の大きな理由は、努力=成果と短絡化し、成功しない者は怠け者と仕訳するところにある。世の中はそんなに単純ではないのだが・・・・

ノンリコースローンだとか、責任財産限定型のパートナーシップといったファイナンス手法は米国発祥のものが多いが、その根底には「人間には努力で克服できない不運による失敗がある。その失敗について当事者に無限責任を負わせるのは不当である」という考え方があり、その根底にはキリスト教的価値観が横たわっていると私は考えている。

ところでスウェーデン型の高福祉政策レジームの基盤は何であろうか?それは1960年代に知的障害者の福祉に努めたベンクト・ニィリエBengt Nirjeの「ノーマライゼーションの理念」であると言われている。「ノーマライゼーションの理念」とは、障害者等社会的弱者が可能な限り普通の環境で生活できるようにするという理念だ。スウェーデンの高齢者介護の基本は在宅介護であるが、その根底には「ノーマライゼーションの理念」があるのだ。

スウェーデンなど北欧諸国は雇用や政治参加で男女平等が最も進んだ国であるが、その根底には「ノーマライゼーションの理念」があると考えることができる。

私はこの「ノーマライゼーションの理念」と米国型の「自助努力の精神」は対立するものではなく、同一の思想基盤に立つものだと理解している。それは「人間の自主性の尊重」や「強烈な個人主義」である。

米国型の低負担・低福祉レジームとスウェーデン型の高負担・高福祉型レジームは所得の配分スキームとしては、対極をなすものだけれど、その違いはむしろ国や社会の成り立ちの歴史に求めるべきではないだろうか?

そこでもう一つの論点のスウェーデンを『社会民主主義』と呼ぶことで思想基盤を誤解することにならないか?ということを論じたい。日本では社会民主主義を掲げる政治団体の中に国防問題を軽視する傾向があるので、特にこの問題を取り上げるのだが、ロシア・プロシア(ドイツ)など大国との戦争に疲弊したスウェーデンは17世紀から「武装中立」を掲げている(二度の世界大戦にも不参加)。国民には兵役義務がある。つまりスウェーデンという国は平和を守ることは相当の努力と犠牲を伴うということを国民が納得している国なのだ。スウェーデンは欧州連合には加盟しているが、国民投票の結果、国家主権が損なわれるとしてユーロには参加していない。これは国家主権ということに国民が高い関心を持っていることの表れだ。

また90年代には金融危機等で苦労したスウェーデンは、財政規律の改善と構造改革を進め2000年代には経済成長率を高めた。2008年には中道右派が政権を取っている。スウェーデンは高福祉と高度な資本主義を上手くコンビネーションさせているが、その根本には強烈な個人主義と合理主義があると見ておく必要があるだろう。

このように見てくると一国の社会政策の基盤には、国民が共有する価値観があることが見えてくる。価値観を確立することなく、他国の制度の「良いとこ取り」をしようとしても上手くいかないと私は見ている。

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