金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

アダム・ポーゼン氏、財政拡大に警鐘を鳴らす

2013年01月16日 | 社会・経済

昨日(1月15日)大型補正予算を閣議決定した安倍内閣。支出総額は13兆円で内8兆円は国債に依存。好調な株価や円安傾向に、財政悪化を懸念する声は小さくなりがちだ。

産経新聞(ネット)によると、維新の会やみんなの党など野党からも今回の補正予算を評価する声があがり、野党だから予算案に反対、という単純な図式はなくなっている。

反対のための反対、がなくなることはいいのだけれど、本当にこの国のことを政治家達は考えているのかという懸念も残る。毎日新聞(ネット)は少し骨のあることを書いていたので後でコメントするとして、FTに寄稿したアダム・ポーゼン氏(ピーターソン研究所所長)の論点を整理してみよう。

ポーゼン氏は1990年代前半に日本は積極的な財政政策を取るべきだと主張したが、その時と今は状況が違うという。90年代前半は、不良債権問題から日本の金融システムの安定性がゆらぎ、財政は収縮していた。一方公的債務の水準は低く、短期的な財政発動が公的投資をクラウディングアウトする懸念はないと判断された。

ポーゼン氏は継続的な赤字財政の必要性は実は2003年半ばには終わってた、と述べる。それは03年頃には日本経済は立ち直っていたからだ。たとえば03年から金融危機が発生する前の07年までの間、一人当たり実質収入の伸びは年間1.8%でアメリカと変わりがなかった。

ポーゼン氏は日本は危機を引き起こすことなく、借金を膨らませ続けることができた(20年間でGDPの60%レベルから220%レベルまで。もっとも国が保有する資産を相殺した純債務ベースでは恐らく130%程度)、その理由は4つあるという。「銀行が巨額の国債を購入するよう誘引されていたこと」「家計が持続的な低金利を受け入れてきたこと」「国債の外国人投資家が少なく(最近でも8%以下)市場の圧力が限定的だったこと」「税収と政府支出の日本の総収入に占める割合が低かったこと」である。

だがこれらの要因はタダではなく、コストを伴っている。一例をあげると銀行による巨額の国債保有は商業貸付を圧迫した(私の考えでは、銀行は商業貸付が伸びない中、預金が増えるのでやむなく国債保有を増やした、という面もある。鶏が先か卵が先か的議論だが)

外国人投資家の圧力がないことは、長期的な円高と株式市場の低迷を招いた。

ポーゼン氏は「現在の日本には追加的な財政政策は不要だ。それは日本の本当の問題、デフレの再発と円の過大評価という問題に対処することなく、財政を悪化させ、国債金利を上昇させ、財政の弾力性を失わす。だから今は日銀による高めのインフレ・ターゲット設定と広範囲な金融資産の大規模購入で十分かつ妥当だろう」と主張している。

ところで毎日新聞(ネット)は「大型補正予算負担は後で、は無責任だ」と批判している。そして毎日新聞は「政権の真剣さを疑う一例が高齢者(70~74歳)の病院における窓口負担の1割から2割への引き上げの1年間延長だ、と批判する。

70歳代前半の医療費負担増を決めたのは、自公政権だったが、07年の参院選での惨敗後高齢者の反発を恐れて、引き上げ凍結を決めた。そしてその凍結が現在まで続いている。

★   ★   ★

「反対のための反対」から「決められる政治」に脱皮することはよいことだ。だが大切なことは「目先の痛みを伴っても長期的にプラスになることを決める」ことである。今年の参院選に勝つことが決める政治の基準点(ベンチマーク)になっているとすれば、危険な話である。

世界は安倍政権の真剣度合いを見ているのである。

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経済成長は大人の責任~成人の日に思う

2013年01月14日 | うんちく・小ネタ

今日1月14日は成人の日。朝方の雨は雪に変わり近所の屋根に2,3cm雪が積もり始めた。朝食を食べながらテレビを見ていると成人の日にちなんで若者の意識調査に関する小さなニュースを流していた。細かい点は聞き漏らしたが、要は「今の若者は将来に明るい見通しを持たない人が多い」という話だったと思う。

では今の若者が自分たちを不幸と感じているか?というと統計上はそうでもないようだ。

内閣府が行なっている「国民生活に関する世論調査」によると20-29歳の現在の生活に対する満足度は全年齢階層中一番高く75%だ。年齢別の満足度は年を取るとともに低下し、50-59歳で61%と最低になる。その後再び上昇して70歳以上になると71%に達する。

「去年に比べた生活の向上感」調査でも20-29歳の向上感は一番高く、19%の人が向上したと感じ、悪化したしたと感じる人は10%弱で71%の人は同じと感じている。

生活の向上感が同じと感じている人は全年齢階層を通じて7割前後で余り変わらないが、向上したあるいは悪化したと感じる人は大きく変わる。向上したと感じる人は年齢が高くなるにつれて、50-59歳では3.9%になり、70歳以上では2%になる。

このデータを見ると若者(20-29歳)の「生活に対する満足度」やその一つの基準となる「生活水準の向上感」は長続きせず、30代に入ると低下を始めると推測できる。

手にとって読んではいないが、「絶望の国の幸福な若者たち」(古市 憲寿)という本にはもはや自分がこれ以上は幸せになると思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない」ということが書いてあるそうだ。

ところで最近読んでいる「経済成長とモラル」(ベンジャミン・M・フリードマン)の中には、人間の幸福度、言い換えると自分を肯定できるかどうかは2つの基準点(ベンチマーク)を比較することで決まるということが書いてある。

2つの基準点とは「自分自身あるいは家族の過去の経験」と「自分の周囲の人がどのように暮らしているか」であると、フリードマンは述べ、2つのベンチマークが補完的であることを示唆している。つまり「人々が自分自身や親たちの過去の経験という基準点にくらべてより良い生活をしていると分かったとき、他人との比較のウエイトが低下する(だろう)」「自分たちの過去とくらべて進歩したと感じているときには、他の人よりも優っていると感じる必要性は低下する」と述べる。

さらにフリードマンは「ここで経済成長が構図の中に入ってくる。過去にくらべてより良い生活をしているという感覚を人に与え続けることで、持続的な成長は、他人よりも良い生活をしたいという欲望を弱くする

構造改革など社会の改革は全体としてプラスになっても一部の人々にコストとリスクを負担させる可能性があるが、そのコストとリスクの負担を軽減させるのは経済成長ということになる。小泉元首相は「構造改革なくして成長なし」と述べていたが、「経済成長がないと、構造改革に伴う痛みの負担が大き過ぎる」ということも又事実だろう。

「もはや自分がこれ以上は幸せになると思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない」という見方が正しいとすれば、それはフリードマン教授につながる伝統的な経済学の通説に対する例外なのだろうか?いや例外というよりアブノーマルな反応と考えるべきだろう。もし若者が痛みを回避するため、このような反応で無意識の内に自己防衛を図っているとすれば、責任は我々にある。

アベノミクスの手法を手放しで評価する訳ではないが、経済成長の重要性を政権の主題にそえたところは正しい。成長する経済を取り戻すことが若者に希望をもたらすのである。そして希望を持つことが、チャレンジ精神を生み、次の成長につながる。

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中央線の旅は3人の倍数がお得

2013年01月14日 | 

年に6,7回つまり2ヶ月に一度程度はJR中央線に乗って信州方面に行っている。目的は山かスキーだ。この2月の連休も八方尾根(駅は白馬)にスキー、3月の初めは北八ヶ岳の高見石から中山峠方面を歩く予定(駅は茅野)だ。

中央線を使って旅をする時、人数が多いとまず「あずさ回数券」の利用を考える。あずさ回数券は6枚綴なので、3人のグループで往復すると丁度一冊がなくなる。だから3人の倍数が得、ということになる。

どれ位得になるのか計算してみた。例えば新宿・白馬の「乗車券+特急指定席券」の片道の値段は8,070円(乗車券5,250円、特急券2,820円)だが、回数券1冊(6枚)は35,100円だから、回数券を使うと片道5,850円になる。割引率27.5%である。また新宿・茅野は片道運賃が5,870円なのに対し、回数券は1枚当たり4,150円であり、割引率は29%だ。

回数券の出発地は新宿オンリーだ。しかし新宿以西の出発地でも回数券の利用が得だ。私は立川駅からあずさ特急に乗ることが多い。立川・茅野の片道運賃は5,130円なので回数券を使う方が得なのだ。暇だから調べてみると八王子・茅野は4,810円なので回数券の利用が得である。

便利な回数券だが、年末年始・GWなどは利用できないという制限や払い戻しには「総ての券が未使用で表紙が揃っている場合」という制限がつく。制約を承知で利用すると得な切符だ。

なお金券ショップでは回数券をばらして1枚から売っているので、一人旅でもあずさ回数券を使うと安く信州旅行をすることができる。もっとも日頃一人旅や二人旅はパソコンから「えきねっと」で切符を予約しているので、こちらは未経験である。

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「老後への覚悟を持て」(村上龍)~読後感

2013年01月13日 | うんちく・小ネタ

「老後への覚悟を持て」は村上龍が文藝春秋(2013年2月号)に寄稿した一文である。共感するところがあったのでポイントを引用した。以下「ですます調」を「だ」調に短縮した以外ほぼ原文の引用(赤字部分)

【2対6対2の法則】

ビジネスの現場には「2対6対2」の法則がある。企業の場合優秀な2割が多くの利潤を生み出し、6割がそれを支えルーティンワークをこなし、2割のお荷物が存在するという法則。

この比率が中高年の経済状態にもあてはまる。悠々自適の老後を送れるのは2割で、お金の心配をしながら老後を送らなければいけない中間層が6割、ボトムの貧困層が2割。

・・・・でもテレビも新聞も雑誌も、そういう格差が中高年の間に存在することを直視していないように思えて仕方がなかった。

【庇護社会の崩壊】

高度成長期までの日本社会の中心にあったのは「庇護」が連鎖する構造。ところがバブル崩壊後、二十年間続く不況のもとで、庇護を軸とした社会関係は壊れていった。

丸山眞男は「日本人も個に目覚めなくてはいけない」という言葉で(個人が)哲学的に武装することを提起した。しかし、いまの中高年はそのような形で個を覚醒するのではなく、それまで自分を庇護してくれていた社会的な盾を、無理やり引き剥がされるようにして、最悪の形で個をあらわにされてしまう。

【消えつつある普通という概念】

庇護と従属の関係とともに消えつつあるのは「普通」という概念。いま「普通の中高年」とか「普通の老後」という言葉は成り立つか、やはりこれも成り立たない。

【新しい人生と出会う瞬間】

「庇護する」「庇護される」に代わる関係は「信頼する」「信頼される」関係。しかし日本社会には「信頼とは何か」という共通認識もない。僕(村上龍)は信頼についてこう考える。僕は信頼を維持しようという友人には無理な頼みはしない。読者との信頼関係を維持するには「いい小説」を書くことに尽きる。

定年後には信頼できる友人がいた方がいい。中高年一人一人にとっては、日本がよくなるかならないか、ということは大した問題ではない。日本がよくなると、つられて自分もよくなるわけではないし、自分がいまダメなのは、日本がダメだからではない。

悠々自適層も中間層も困窮層の人も、自分がどう生きていくかは自分で考え、生き延びなきゃいけない時代なのだ。

以下私のコメント。

「自分がどう生きていくかを自分で考えなければいけない」ということは、人間が「考える」力を持って以来の宿命だ。「自分でどう生きたいか?」を考えないまま一生を送ると恐らく死が近づくにつれて強い虚しさに襲われるだろう、と私は考えている。だから「どう生きようか」と考えるのである。

だが一昔前であれば老後「どういきようか」と考える必要は余りなかったのではないか?と私は考えている。理由は幾つかある。まず平均寿命が短かった。定年後の「老後」という時期が短かった。考える暇もなくお迎えが来た(これはかなり昔の話か?)。核家族化や核分裂家族現象以前で、老後は孫と遊ぶ程度で楽しく過ごすことができたが、非婚化や少子化でそのような機会が減った。経済成長が社会インフラの充実や高福祉という形で高齢者にも還元されたが今や期待する術もない・・・・・などなど。

長寿化はソクラテスの時代から永遠の課題である「よく生きるとはどういうことか」ということを総ての人に考えさせる。

村上龍はそれを「庇護・被庇護」の関係を脱却し「信頼関係」に出会うことだ、と考える。

私も同感する。庇護・被庇護の関係は山登りでいうと、先生に引率された幼稚園か小学校低学年の遠足登山の世界だ。生徒は先生にお任せだ。信頼関係の登山とは一人一人の大人が自分の役割を担って参加する大人の登山だ。むろん経験や技量によって担う役割は違う。リーダーの役割は大きい。役割の大きさつまりaccountability の大きさは人によって異なる。だが一人一人が担う役割を責任を持ってこなさなければいけないというresponsibilityの重さは同じだ。このような信頼関係を維持するには、本人の努力(例えばパーティの足を引っ張らないように日頃トレーニングをするなど)が必要だ。

「老後の覚悟を持て」というと大変なことのように聞こえるが、その第一歩は「自分のことは自分でする」「そのために体力と知力のレベルを維持するためのトレーニングを行う」ことなのだろう、と私は考えている。そのような人が「信頼される」人の必要条件である。十分条件ではないにしろ、である。

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外秩父七山前半縦走~絶景を楽しむ散歩

2013年01月12日 | 

1月12日(土曜日)快晴。元の会社の山仲間と外秩父七山の前半3分の1程度を縦走した。外秩父という名称がどれほどこなれているかは知らないが、東武東上線小川町駅で貰った地図には「外秩父」とあるのでその名前を使う。要は西武秩父線と東武東上線の間にある標高9百メートル弱の山並みである。

小川町駅に9時に集合した一行6名(内美女1名)は9時10分のバスで「学校入口」駅へ。2,3分歩いて「東秩父村 和紙の里」から登山を開始した。

Sotochihcibu1

午前9時30分である。ハイキングコースの標識はしっかりしているので迷うことはないだろう。和紙の里の建物の裏側から斜面を登ってハイキングの開始。

Sotochihcibu2

登山道を落ち葉が覆い尽くしていた。写真のような雑木林の山道を1時間ほど歩くと突然舗装道に出会った(10時45分)。舗装道をしばらく(約15分程)西に進んで標識を見てまた山道に入った。緩斜面・急斜面を交えながら約1時間の登りで笠山分岐に到着(12時7分)。標高837m笠山神社のあるピークは分岐から3分の距離だ。

Kasayama

笠山神社で記念撮影。

笠山分岐は北側の眺望が良いところで赤城山や浅間山、男体山などがはっきり分かった。

笠山分岐で昼食。笠山分岐からガレた斜面を笠山峠に下った(12時50分到着)。また舗装道路と交差する。この外秩父縦走路はしばしば舗装道路と交差するのがやや興ざめではある。

笠山峠から凍って土が硬くなっている北側斜面を登って気持ちがいい堂平山(どうだいらさん)875.8m頂上に13時23分登頂。

Doudaira

広大な芝生の斜面はパラグライダー用の私有地で立入禁止。

その立入禁止の斜面の向こうに浅間山が見えた。

Asama

浅間山の右に見える山は四阿山のようでその右には草津白根山が見える。素晴らしい山岳風景だ。

でも1時間に1本ほどしかない2時半のバスに乗ろう、ということで名残惜しい絶景に別れを告げた。

13時53分白石峠到着。バス停まで2.8km。30分少々で下るべく少しピッチをあげた。

Shiraisitouge

途中の堰堤に大きな氷が張っていた。

Ice

直感的には日陰の気温はマイナス3,4度だ。寒い1日だった。バス停には10分程度の余裕を持って到着。このバス停(白石車庫)から小川町までのバス料金は600円だ。高い!と思うけれど歩く気にもなれないから仕方がない。小川町駅前の蕎麦屋で一飲みして当会初登山の慰労会とした。

ちなみに本日の歩行距離は14km。歩行時間は休憩込みで5時間5分だった。外秩父七峰縦走は全部でフルマラソンと同じ42kmだそうだ。こんなペースで歩いていると15時間はかかってしまう、ひぇ~。

ということで余り参考になりませんが本日歩いたルートのトラックデータを載せました。

「sotochihicbu.pdf」をダウンロード

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