8月24日の日経新聞朝刊の小さな囲み記事で「ユニクエスト 5.5万円で永代供養」というニュースが載っていました。インターネットで葬式プラン「小さなお葬式」を販売するユニクエスト・オンラインが、5.5万円で永代供養ができるサービスを始めたという内容です。
この記事を見て「永代供養に意味があるのか?」ということを考えてみることにしました。
前回書いたブログ「老い方・死に方を学ぶ」の実践編です。ただし私は私の考え方を読者の皆様に押し付ける積りはありません。
永代供養という切り口から死に方を考える一つの意見として見て頂いたら良いと思います。
まず「供養」ということを考えてみましょう。「供養」とはサンスクリット語のプージャーの略で仏・菩薩・諸天などに香・花・食物などを心から捧げる行為を指します。供養とは真理に帰依することを表す行為といえるでしょう。
日本では「永代供養」「追善供養」という言葉で示されるとおり、供養の代表的なものは死者の霊を弔う仏教行事です。もっとも針供養などと死者とは関係のない供養もありますが。
ところで死者を弔う「供養」は本来の仏教(お釈迦様の教え)によるものか?というと私は違うと考えています。
日本でも本来の浄土真宗は「先祖の供養」をしないはずです。なぜなら親鸞上人の教えでは「すべての人は阿弥陀の本願により極楽浄土に往生することが決まっている」ので、死者の霊を慰める必要がないからです。
一方日本仏教の多くの宗派は「追善供養」や「施餓鬼」によって、この世の善行が不足して極楽往生できない人を子孫がバックアップすることで、往生を助けるという論理構成を取っていると私は考えています。
お釈迦様の考えやそのバックにあるインド思想の根幹である輪廻転生論で考えると人は生前の行いの良し悪しにより、六道のいずれかに生まれ変わります。六道の最上位は「天上」ですが、ここは究極の上がりではありません。天上からも行いによっては、それ以下の人間・修羅などに落ちる可能性があります。このサイクルから抜け出すには「悟りを開く」つまり解脱しかありません。
このような考え方には「先祖に対する供養」という考え方が入る余地はありません。
つまり人は自分の人生に全責任を負っていると考えるのです。
キリスト教やイスラム教について詳しいことは知りませんが、総ての人は神が定めた掟に従って善い生き方をしたかどうかで裁かれます。これまた子孫の供養は期待できません。
つまりキリスト教・イスラム教・インド思想は人は生きている時に良いことをしたか悪いことをしたかで裁かれるという点で共通しています。
これに対して日本の仏教では一部の例外を除いて、子孫の供養で先祖の善行不足を補うことができるという立場を取っていると私は考えています。
「立場」といったのはそれは思想ではないからです。つまり「供養」を信者に求めることが寺院経営上必要だったからです。
「永代供養」というのは、その人の供養を行う子孫がいない場合、お寺が代わりに長年(永代といっても永遠ではありません)供養を行いますという約束なのです。
でも私は次のような考え方を持っている人は永代供養も供養も必要はないと考えています。
・本当の浄土真宗の信徒のようにこの世の行いがどうあっても極楽往生すると信じている人
・一神教徒のようにこの世の行いの良し悪しで天国に行くか地獄に行くかは定まりかつ自分は善い行いをしたと信じている人
・死んだらおしまい、と考えている人
・輪廻転生を信じている人
私自身は「死んだらおしまいと輪廻転生の間」位の考え方を持っています。つまり「死後のことは分らないから死んだらおしまい」説なのですが、「自分が残す生き方は色々な形で子どもや周りの人々・環境に影響を与える」という考える点で輪廻転生的とも考えています。
後段をもう少し説明すると、人から信用・信頼される生き方をしていると恐らく回りの人は「あの人の子どもだから」と思って、子どもたちも信用してくれるでしょう。そして逆ならば子どもたちは親のせいで信頼を得られないかもしれません。
もっと広い意味では、環境を大事にしない生き方をすれば(そんな人が多ければ)、環境汚染・環境破壊に繋がり、広い意味の人類の生活環境を悪化させます。因果は巡るということなのです。
ということで「良い生き方をしたい」とは思いますが、良い生き方ができなかったとしても、それを他人様の供養でサポートして貰うつもりは私にはありません。つまり私は永代供養のようなものは無意味だと考えているのです。
もっともこのような考え方を他人に押し付ける積りはありません。人それぞれの考え方で良いと思います。
ただ老い方・死に方を考えるという一つの例として、意見を述べてみました。