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金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

晩夏の八幡平を歩く

2015年08月23日 | 

8月21日-22日で八幡平・岩手山に出かけた。

8月21日(金曜日)総勢10名は午前10時にJR新花巻駅に集合。名古屋から花巻空港に飛行機で先着したSEさんがレンタカーの手配を済ませてくれていた。今回はレンタカー2台を茶臼岳スタート組と八幡平スタート組に分けて出発して、途中で車のキーを交換することになっている。

駅近くのセブンイレブンで昼食等を購入して、八幡平にむけて2台でドライブ。空いている東北道のドライブは快適だ。12時過ぎに茶臼山登山口駐車場に到着。幸いなことに1台分の駐車スペースが空いていたので、予定通り1台のレンタカーをここに駐車。もう1台は八幡平頂上駐車場へ。登山口の駐車スペースは6台分程度と狭いが、少し上に何台かの駐車スペースがありそちらも利用可能だ。

 

 八幡平山頂には有料(5百円)と無料の駐車場があり、登山口に近い有料駐車場に車を止めて休憩所で昼食を取った。

12時34分登山開始。GPSの高度は1,533m。八幡平頂上は1,613mだから標高差僅かに80mだ。八幡平は日本百名山の中で最も登りやすい山の一つだ。

写真右上には見返峠のWCが見えている。

12時44分見返峠。13時1分八幡平頂上。八幡平頂上には木製の櫓があるが、眺望は今一つ。「300」と書いたポールが立っている。これはスキーツアー用の標識だ。広大な雪原をワンダリングするのは楽しいかもしれないが、傾斜がないので滑降面では妙味はなさそうだ。

 アザミの写真を撮りながらぶらぶら歩いて行くと八幡沼が見えてきた。

露出補正を+0.7で撮影すると草原の明るさを表現することができた。露出補正をしないと湖面の影響で全体が暗くくすむ。

源太別れまでは快適な湿原の上の木道歩き。湿原には秋が近づいている。

秋の湿原を彩るのは紫色のエゾオヤマリンドウの花だ。いたるところに咲いている。

13時42分 源太の森到着。眺望抜群だ。

14時頃茶臼岳からスタートしたチームとすれ違い、車の鍵を交換した。

14時12分 黒谷地。休憩。

14時53分 茶臼岳1,578m到着。

翌日登る予定(雨のため登山中止となったが)の岩手山が目の前に見える。写真中央の沼は夜沼。

15時27分茶臼山登山口駐車場到着。すぐに別働隊の車が来たので、そろって宿泊地焼走りキャンプ場に向かった。

16時過ぎにキャンプ場到着。まず温泉で一風呂浴びてから、コテージに移り、バーベキューに取りかかった。

キャンプ場が用意してくれた豊富な肉に加えてSAさん持参の「鰹のたたき」+回鍋肉という何とも豪勢な晩餐となった。

八幡平は日本百名山の中では伊吹山(ドライブウエイ利用)、乗鞍岳、蔵王山などと並んで歩く時間の少ない楽な山である。

八幡平駐車場から頂上の道は石畳の部分も多く、運動靴でも楽に往復できる。

沼と湿原がおおらかに広がる景観はフォトジェニックである。高山植物の盛りを過ぎたこの時期写真になる花は少なかったが、秋の近づきを感じる草原歩きは心地よかった。

 

 

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私の生涯学習論(4)~身の丈にあったお金の使い方

2015年08月23日 | ライフプランニングファイル

「身の丈にあったお金の使い方」というと、節約という言葉がまず頭に浮かぶかもしれません。

しかし単なる節約は萎縮に繋がり、人生を楽しむという積極性に欠けると私は思います。

むしろ「使いたいことに時間とお金を使うために、自分のやりたいことを絞り込もう」と私は考えています。

私の場合60歳位まではそこそこゴルフをやっていましたが、その後すっかりクラブを握らなくなりました。理由は節約というよりも「ばね指(一種の腱鞘炎)のため、ボールを沢山打つと指の関節が痛くなる」という問題があったからです。

沢山叩かずにラウンドすれば良いのですが、腕前からしてそれはできません。サラリーマン時代は少々指が痛くても「取引先とのお付き合い」「会社のコンペ」ということでお付き合いをしていたのですが、サラリーマンを離れるとその必要はないのであっさり止めることにしました。

でもモノゴトは「止める」ということを支点に考えると悪い方に向かいます。そこで「ゴルフを止める」のではなく、私にとってもっと楽しいことを「する」と考えることにしました。それは山登りとスキーです。こちらは全身運動ですから、ばね指になることはまずありません。

山やスキーに、もっと時間とお金という資源を集中しようと考えたのです。

人によっては逆の場合があると思います。つまり山を登る体力に自信がなくなってきたからこれからはゴルフに集中しようという人もあると思います。それはそれでとても良いことだと思います。

シニアにとって大事なことは「色々なことを止めて節約する」と考えるのではなく、「限られたことに集中するため、付き合いでやっていたようなことは止める」と考えることだと私は思っています。

もちろん世の中には、体力・体調万全で、時間もお金もたっぷりある。だから何でもやろうという積極的な人がいると思います。それはそれで結構なことだと思います。それがその人の身の丈だからです。

「身の丈」とは良く言ったもので、人には持って生まれた「福分」があると思います。これは身長と同じで変えることはできない。しかし背が高い人は背の高さを活かした生き方を、背が低い人は背の低さを活かした生き方を見つければ良いと私は考えています。

そして集中することには、お金と時間をかけたいし、お金と時間をかける以上自分なりに満足できるレベルまで達したいと私は考えています。人が持って生まれた「福分」には定めがあると言いましたが、私はその「福分」をどう配分するか?という点について、人は裁量権を持っていると思います。また大枠では定まっている「福分」ですが、努力することで多少伸びしろがあると思っています。

ではどのような努力をすれば良いのでしょうか?

私はそれを「極めようとする気持ちを持続する」「良いものにこだわる」ことだと考えています。

次回は「良いものにこだわる」ということを述べたいと思います。

 

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私の生涯学習論(3)~学び続ける意味(3)

2015年08月22日 | ライフプランニングファイル

前回「さわやかな人生を残す」ことが、多くの一般人にとって達成可能な人生のゴールではないか?という話を書きました。

ではさわやかな人生とはどのような人生なのでしょうか?

江戸末期の儒学者・佐藤一斎の「言志耋(てつ)録」に「毀誉得喪は、真にこれ人生の雲霧なり。人をして昏迷せしむ。この雲霧を一掃すれば、即ち天青く日白し」という言葉があります。

褒められたり貶されたり、地位を得たり失ったりすることは、人生において雲や霧のようにはかない。しかし人はその雲や霧に迷う。その雲や霧を一掃すれば、青空が広がるという意味です。

まず青空のようなさわやかな人生は毀誉褒貶や地位に拘泥していては得られないということです。

そしてそれらを離れ自分を尊重し、自分を知り、自分をコントロールすることで人生の主人になれるとイギリスの詩人テニソンは述べています。

Self-reverence, self-knowledge, self-contorol----These three alone lead life to sovereign power.

(この部分「佐藤一斎 言志四録を読む」神渡良平著 致知出版社より引用)

自分をコントロールするというのは、かなり幅の広い概念ですが、「身の丈にあったお金の使い方で楽しく生きる」というのも、セルフ・コントロールの一つだと思います。

次回は「身の丈にあったお金の使い方」と考えてみたいとおもいます

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私の生涯学習論(2)~学び続ける意味(2)

2015年08月21日 | ライフプランニングファイル

前回「人生の主人」になるには「人間学」を学ぶ必要があると書きました。

まず「人生の主人」ということについて考えてみましょう。

「人生の主人」とは何か?を簡単にいうと「自分のしたいことをして生きる人生」のことだと私は考えています。平たくというと「したいことをして楽しく生きる人生」だと考えています。

芸術家・一部の起業家のように、したいことをしながら収入を得て、生涯楽しい人生を送ることができる人はいますが、ごく一部の才能と環境に恵まれた人でしょう。多くの人は「自分を養うため・家族を養うため」に、社会や組織ときには家族と折り合いをつけながら、人生を送るものだと思います。

こう書くと私を個人的に良く知っている人からは「あんたは随分やりたい放題やって気儘に生きているのじゃないの?」と批判が聞こえてきそうですが、決してそうではありません(笑)。これでも結構世渡りには気を使って来ました。

話が少し脱線しましたが、本題に戻すと私は、定年を迎えてシニア層になるということは、それまでの桎梏を離れ、「人生の主人」になるチャンスを得ることだと考えています。

しかしチャンスを得たからといって、多くの日本人の方が「人生の主人」になっているか?というと必ずしもそうではない、と私は考えています。

一例をあげましょう。日本では「経管栄養補給を得て寝たきり老人」となって終末期を迎える人がいますが、現在のヨーロッパでは非常に少ないと聞きます。実はヨーロッパでも20年位前までは「寝たきり老人」は結構いたそうですが、「楽しみを覚えることなく、生きていて何の意味があるのか?」という考えが広がり、現在では「寝たきり老人」は非常に少なくなったということです。

つまり多くのヨーロッパ人は「楽しくてこそ人生」という考えを持っているようです。一方日本では明るく「人生は楽しむためにあるのだ」と断言することが憚られるような雰囲気があるようです。

「楽しくてこそ人生」という人生観とキリスト教の人生観がどうマッチするのかはよく分りませんが、そこには「人は死ぬものだ」という基本認識があると私は考えています。人はやがて死ぬだから精々楽しく生きよう。そして最後の日が来たら慫慂とそれを受け入れようという考え方です。

ところが色々な経緯から戦後の日本では「死生観」と向き合うことが敬遠されてきて、その代替として「延命至上主義」のような考え方が跋扈しているのだろうと私は考えています。

だが多少延命したところで、人間はいずれは死にます。「いずれは死ぬ」ということを前提として何を残すか?何を残さないか?を考えるのが「人間学」のスタート点だと私は考えています。

なにを残すか?何を残さないか?という見極めがついた時、人生はすっきりするのではないでしょうか?(自分でできていない話を偉そうに書いて恐縮ですが)

明治のキリスト教思想家・内村鑑三は「まず事業を残すことを考えろ。それができなければ金を残すことを考えろ。それもできないならさわやかな人生を残すことを考えろ」という趣旨のことを言っています。残された事業は多くの人を養い社会に貢献するからです。残されたお金も使い道によっては世の中に役立つからです。

もっとも我々一般人は大きな事業やお金を残すことは困難ですから、内村鑑三の言葉に従えば「さわやかな人生を残す」ことが一つの人生の目標なのかもしれません。

 

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私の生涯学習論(1)~学び続ける意味(1)

2015年08月20日 | ライフプランニングファイル

今千葉県の2つの市で「マイナンバー制度に関する講演」を行う準備を進めています。講演会に出席するのは、それぞれの生涯学習グループの方々で大半シニア層の方です。学習グループをサポートするのは市の生涯学習課のような担当部署です。

講演のメインテーマとは少し外れるのですが、同じシニア層として時間があれば5分ほど「学び続ける意味」といったことについて私の考えを述べてみたいと思っています。

その下準備として「私の生涯学習論」を何回かに分けてブログに書きながら整理をしていきたいと考えています。

まず最初は「学び続ける目的・意味」についてです。

私は「学び続ける目的・意味」は幾つかあると思っています。

一つは「持っている知識・スキルを現在の環境で活用できるように情報技術をアップデートする」というものです。

多くの人はシニアになっても仕事やボランティア活動を通じて、組織や若い世代の人とつながりを持ち続けます。

現在の企業・組織は、ICT(情報通信技術)基盤の上で動いています。従って高い知識・スキルがあっても、それをITCを使いながら、他人に伝えることができないとそれらを活かすことができません。

また新しい情報もITCを有効に活用することで効率的に収集することができ、自分が持っている既存の知識・スキルを一層高めることができます。

一部の人にとっては情報通信技術を磨くこと自体が目的になる(たとえばパソコン教室を開くなど)場合もありますが、多くの人にとっては、それは効率よく情報を収集・発信する技術に過ぎません。しかし「過ぎない」といって軽視すると不便な生活を送ることになると思います。情報通信技術に淫することなく、しかし毛嫌いすることもなく、できるところから学び続けるということが、私は生涯学習の基盤になると思っています。

いわば情報通信技術は現在の読み・書き・そろばんなのです。

だが読み・書き・そろばんだけでは、丁稚小僧で終わりです。「人生の主人」になるには、「人間学」を学ぶ必要があります。

では何故「人間学」を学ぶ必要があるのか?という点については次のブログで説明したいと思います。

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