金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

遊びをせんとや生まれけむ

2009年06月18日 | うんちく・小ネタ

今月は珍しくゴルフの予定が4回入っている。内2回は接待だが遊びであることには変わりはない。アウトドア遊びでは今週末の八ヶ岳縦走。映画はこの前観た「ハゲタカ」の他に「剱岳 点の記」を観る予定だ。「遊びまくり」というと大袈裟だが今月はよく遊ぶ。

「遊び」という言葉で思い出すのが、梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」という歌(今様)だ。梁塵秘抄を読んだことのない人でもこの歌の出だしは聞いたことがあるだろう。

遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけん

遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ (歌はこれで終わり)

私はこの歌のエピキュリアン的明るさが好きだ。人生の目的?それは遊ぶことよ。遊びをするために生まれてきたのだもの。という底抜けの明るさが良い。

ところが世間はどうも「遊び」を悪いことのように考える人がいるようだ。私の会社である種の人達は「すみませんが明日お休みを頂きます」とか出社後「お休みを頂きましてありがとうございました」という挨拶をする。個人的な癖なのか合併前の会社の弊風なのかは知らないが私はこの手の集団主義的慣習が嫌いである。

江戸時代の大店の手代・番頭の関係ならいざ知らず、現在は個人的な価値観と成果主義の時代だ。自分がやるべきことをやっていれば、権利と周囲とのバランスの範囲で堂々と休めば良いし上司にお礼などいう必要はない。

ところで「遊びやせん」の遊びとは何の遊びか?とか誰が主人公なのか?ということについては色々解釈があるようだ。遊女が自ら罪深い日頃の暮らしに対する悔恨をうたったとする解釈(梁塵秘抄考・小西甚一)もあるが、明るい調べの中から私には悔恨の響きは伝わってこない。

古代文学研究の泰斗・西郷信綱は「この遊びは歌をうたうことだろう」という解釈を下している。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。私は遊びの内容を詮索するよりも、一人ひとりが「自分の遊び」を思い浮かべながら、この歌の明るい調べを思い出せばよいと考えている。

景気が悪い時こそ遊んで内需拡大に貢献するという気概があってもよいのではないだろうか?

コメント
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