中国の民主活動家・劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞することが決まった後、米国のオバマ大統領や欧州各国から劉氏の釈放を求める声が高まっている。菅首相は「人権についてノーベル賞委員会が評価をした」とコメントは出しているが釈放要求については言及していない。
私のブログにもある読者の方から「劉暁波さんのノーベル平和賞受賞に関し市民運動家出身の我らが首相は茶を濁すような発言ばかりですが。」というコメントを頂いている。
菅首相が劉氏の釈放を求めない理由は何か?無論微妙な関係にある中国政府をこれ以上刺激したくないというプラグマティックな判断が働いていることは間違いないが、私は「市民運動家出身」というところに一つのポイントがあるのではないか?と考えている。
先日発売された文芸春秋(11月号)に「憂国対談 菅直人だから中国がつけあがる」という対談記事がある。対談者は徳岡孝夫氏と保坂正康氏だ。その中で保坂氏がこのように述べている。
「市民運動家とか弁護士出身の政治家はじっくり考えて世界観を作り上げるタイプではなく、眼前の物事にどう対処するかに長けた人たちであって、哲学とか思想を語れるわけではない。それが菅の言葉の軽さにもよく出ていると思う。」
また徳岡氏は「彼ら(市民運動家。市川房江氏や菅氏)がやる運動というのは、要するに自分に危害が及ばない範囲での運動。これは三島由紀夫さんが一番軽蔑していたところです。命懸けでも革命が成功するかどうかわからんのに、まして最初から命を懸ける気持ちがないやつらに革命なんかできるはずはないと、三島さんは行っていましたね。」「菅もそうですが、市民運動というの論理があんまりない。ものを考えるのに、人間として考えない。ムードが盛り上がってきたところで、私たちの輪を大いに広げましょうとか言って煽るんだけど、それを総理大臣として国家規模でやったらあかんと思います。」と述べている。
この対談は劉暁波氏のノーベル賞受賞報道の前になされたものだが、今もし徳岡氏と保坂氏に「市民運動出身の菅首相は何故劉氏の釈放を求めないのか?」と質問すると同じ答が返ってくるだろう。
つまり命懸けで中国の民主化を主張してきた劉氏の運動と、菅氏らの市民運動は全く別物で、菅氏に劉氏釈放主張を求める方がおかど違いということだ。
ただこのことについて私は特に菅氏一人を強く批判するつもりはない。というのは所詮日本の民主主義は敗戦の結果米国により与えられたものであり、民主化運動が勝ち取ったものではないからだ。つまり劉氏のように命懸けで民主化運動を行ってきた人はほとんどいないのである(少なくとも政権を担う人の中には)。
以上のような背景やプラグマティックな判断を考えると日本の政権担当者が劉氏釈放を声高に要求することはないだろうと私は考えている。
しかしである。中国の中には体制内で「国家ではなく国民の権利を重視しよう」という普遍的価値の追求を主張する声が起きていることを見落としてはならない。日本の政治家はこれらの声を正しく捉えながら、必要なメッセージを送ることで「より良い隣人」になることは可能だと私は考えている。