昨日(5月15日)夕方安倍首相が集団的自衛権の行使に向けて憲法解釈を変更する方針で臨むという記者会見を行っていた。
私自身は集団的自衛権の行使には賛成なのだが、憲法解釈の変更で対応するという考え方には違和感を感じている。理由はシンプルで従来の憲法解釈と整合性が取れなくなったのであれば憲法を変えるべきだと考えるからだ。法律やルールというものは、本来金太郎飴でなくてはいけないと私は考えている。つまり誰が何時切っても同じ金太郎がでるように、誰がいつ読んでも同じ理解をするように明快なものでなくてはいけないというのが私の理解。
もっとも現在「内閣による憲法解釈の変更ではなく、憲法解釈で対応するべきだ」と主張する人の中にはハードルを上げることで、集団的自衛権の行使を避けようとする人がいるので、注意しなければいけないが。
憲法論議に関して私が思うことは、守るべきものは「憲法」なのかそれとも「国民の安全」なのか?ということである。「憲法」を守る理由はそれが「基本的人権」や「国民の安全」を守るためのものであり、「基本的人権」や「国民の安全」を真の目的とすれば憲法はその手段であると私は考えている。
これは宗教における本当の神と神像との関係に似ていると私は感じている。もとより偶像崇拝を厳しく禁じるイスラム教のような宗教を別にすれば、多くの宗教は神像などの崇拝の対象物を持っている。私はこのような崇拝の対象は祈りをささげる上で、都合が良いので設けられているものだ、と解釈している(もっとも偶像そのものに過大な信仰を置く宗教もない訳ではないが)。
つまり神像は一種のproxyで、人々はその背後にある見ることのできない神や仏に祈りをささげているのであり、本当に大切なのは見ることのできない神や仏なのである。神像・仏像はconcentrationの手段なのであろう。
憲法論議のこの解釈を当てはめると、憲法は神像でproxyであり、本当に大事なものは「基本的人権」や「国民の安全」である。
神像は古くなれば修復しても良いし、新しいものと変えても構わないだろう。もし神像などの背後にある本当の神や仏のことを忘れて、石や金属でできた像そのものを拝むことに腐心するようになれば、それは偶像崇拝と呼ばれるのである。
ということで本当は古くなった神像を修復したいのだが、神像はありがたいものなので、古くなっても触っちゃいかん、という人が多い場合は憲法解釈の変更で対応するというのも次善の策なのだろう。政治においては実を取ることが大事だろうから。