お盆の時期なので、マスコミでもお墓の話題が取り上げられている。朝テレビで「小平霊園の樹木葬用墓地の申込が分譲数の10倍になった」という話が流れていた。
伝統的な石のお墓の他に色々な遺骨の祭り方が増えているが私は樹木葬が日本人の伝統的な霊魂に対する考えに一番合っているのではないかと考えている。
私は世界的に見ると死後の魂のあり方について4つの考え方に分類できる考えている。
第1は「最後の審判型」だ。これはキリスト教とイスラム教の考え方だ。人は死ぬと生前の行いについて神の裁きを受け、魂は天国に行くか地獄に落とされるかふるいにかけられる。そしてどちらかに行った魂はそれで終わりというものだ。
第2は「輪廻転生型」だ。これはヒンズー教の教えが典型的だ。人は死ぬと生前の行いの良し悪しにより、「天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の六道のいずれかに生まれ変わる。そこでまた修行を積み、死ねばまた次のいずれかの六道に生まれ変わるというものだ。
第3は「里山型」だ。これは中国、日本など東アジアに多い考え方で、死後人の魂は比較的人間社会に近いところに相当期間とどまっているという考え方だ。古い日本の考え方では人の魂は人里からそう遠くない森の中にとどまっていると考えられたからこれを「里山型」となずけた次第だ。
第4はそもそも「死後に霊魂は残らない」という考え方や「死後の世界のことは分らない」とする考え方でこれを「霊魂消滅型・不可知型」と分類した。
私はお釈迦様は第4の「不可知型」の考え方を取っていたと考えている。
日本の仏教がどのような考え方を取っているのかははっきりしない。その理由は江戸時代に始まった檀家制度とお寺の収益維持システムとしての「お墓の仕組み」が霊魂のあり方に対する論理的整合性を歪めているからだと私は判断している。
浄土真宗を開いた親鸞聖人は、「自分が死んだら遺骸は賀茂川に流してくれ」と言っていたそうだが、これは「死ねば自分の魂は阿弥陀如来の力により必ず極楽往生する」という宗教的信念と整合する。しかしそれではお寺の大きな伽藍や宗門システムは維持できないので、後世「お墓」や「追善供養」といったシステムが編み出されたのだろうと私は考えている。
なお私の分類では親鸞聖人の教えは「輪廻転生型」の変形で、永劫的な輪廻のサイクルを一足飛びに飛び越しして、ゴールの極楽に直行するとしたものだと考えている。
今まで「お墓」のマイナス面を書いたが、プラス面もあると思う。それは「霊魂里山型」を先祖代々の刷り込みとして持っている我々日本人にとってはお墓は魂の依代(よりしろ)的な意味があるからだ。
もしそうだとすると石のお墓に葬られるより、樹木の中に葬られる方がよりしっくりくるのではないだろうか?