金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

狂女恋せよほととぎす

2006年07月03日 | うんちく・小ネタ

先週末京都の実家に帰った時庭に紫陽花が咲いていた。私の実家というのは洛北岩倉のお寺である。「あじさい」「岩倉」というと江戸中期の俳人蕪村の絵を思い出す。右上に左を指して飛ぶホトトギスがあり、左下に紫陽花が描かれている絵だ。ホトトギスの下に小さく三行に分けられた句が書かれている。

岩倉の狂女恋せよほととぎす

高橋 治「蕪村春秋」(朝日文庫)によれば「京、岩倉にある寺の境内の滝は、昔から狂気を治すのに効があるといわれた。ほととぎすの啼く声は、狂女が恋人を求めて泣く声を思わせるとの発想から出た句だろう。」

もう少し解説を加えよう。岩倉にある寺とは大雲寺で天禄2年(971年)円融天皇の勅願で建立された古刹だ。後三条天皇(第71代、1034年-1073年)の皇女佳子内親王が精神障害を患った時、霊告により大雲寺の滝の水にうたれ井戸の水を飲んで平癒したということがある。爾来岩倉は精神障害者の療養の場所として有名だった。蕪村の時代には4軒の茶屋(精神障害者の療養所)があったと聞く。私の子供の頃には近代的な精神病院の他にこの古い療養所の建物が1,2軒残っていたことを記憶している。

現在の大雲寺は昔の大雲寺から少し東に下ったところに今作りの小さな本堂を残すのみで、昔の面影を偲ぶものはない。ただ今も精神病その他の難病のご祈祷を求める人は結構ある様だ。お寺の前には私の母が育てたピンク色の紫陽花が咲いている。無論蕪村の紫陽花とは何のつながりもない。

ところで前掲の「蕪村春秋」によれば蕪村には一句も紫陽花の句がないということだ。著者は「信じ難い。(紫陽花は)蕪村好みの花と思える上に、色彩からして絶好の画材だという気がするからだ。」というがないものはないらしい。

ところで芭蕉の紫陽花の句も現存するものは二句にすぎないということだ。その中の一句

紫陽花や藪を小庭の別座敷

江戸時代どうして紫陽花が俳句の対象として余り人気がなかったのか?といったことはいずれ調べてみたいものだ。

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親はありがたい

2006年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

母の体調が今ひとつと弟が言っていたので、週末とんぼ返りで京都の実家を訪ねた。幸いなことに弟の思い過ごしで母の体調は良好であり、母の方が宿沢さん(広明さん。この前赤木山で急逝した三井住友銀行の役員)の話をだし、私の健康を心配する位だった。

Ajisai_1 時間があれば、京都のお寺の庭園でも回り写真を撮りたいと思っていたが、今回は時間もなく私の体調(腰の具合)も今ひとつなので、実家のアジサイだけ写真に収めて帰った。

写真ではほとんど分らないが、少し前まで激しい雨が降っていてアジサイの花の上に細かな水滴が浮かんでいる。

アジサイに 水滴光る 老母(はは)元気    (北の旅人)

このアジサイも母が手入れしている植木だ。大正10年生まれの父母は京都の北辺で小さな寺を守っているが、幸いなことに共に元気だ。そして50歳を過ぎた息子の健康を気遣うのである。

論語為政第二に「孟武伯 孝を問う。子曰く、父母は唯その疾(やまい)をこれ憂う」という一文がある。通釈は貴族の師弟の孟武伯が父母に孝行を尽くす道を孔子に問うた。その時の孔子の答が「父母は何事につけ子供のことを心配するものですが、その中でも子供が病気になりはせぬかという心配は絶えることはないものです」というものだった。これはとかく不摂生に陥りやすい孟武伯を孔子が戒めたのだという説明が「論語新釈」(宇野 哲人 講談社学術文庫)に出ている。待機説法に長けた孔子らしい話だ。

それにしても昔は山で怪我などしないように気をつけるのが、親孝行の始めだったが、こちらも中年になってくるとメタポリックシンドロームなど気を着けないといけないことが増えてくるので大変だ。孔子が現在に生きていたら「ダイエットが孝の始め也」などと言うかもしれない。

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