金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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北朝鮮、イラク、自衛艦派遣の連環

2007年09月11日 | 国際・政治

日本のマスコミや政治家の国際問題に関する欠点は断片的事実(間違いも多いが)を国民に語ることはあっても、国際情勢の全体像と日本の利害を明確に示せないことである。例えば日本の外交上重要な「米国が北朝鮮との和解を急速に進めている」「テロ対策特別措置法の延期を求め、自衛艦の給油活動の継続を求めている」という問題がイラク問題と緊密に絡んでいることを国民に示していない。

ポイントは米国がイラクで抱える問題の大きさであるが、そのことを論じる前に最近のファイナンシャルタイムズの日本・北朝鮮の外交交渉に関する記事の紹介から始めよう。

  • 先般のウランバートルでの両国の会談が始まる前に、東京は北朝鮮に緊急援助を送ることを考えるかもしれないと言った。加えて東京は日本の朝鮮半島の植民地的占領に対する賠償について討議することに同意するかもしれないと述べた。
  • これは「現金」を意味する。1965年の日韓国交正常化に際してソウルは賠償金として3億ドルを受け取った。これは現在の貨幣価値で60億ドルから100億ドルに相当する。
  • 安全保障問題の専門家である東京テンプル大学のデュアリックDujarric教授は日本が軟化しているのは二つの理由があると述べた。一つは北朝鮮の核問題の解決で迅速な動きを示す米国の動きにより日本が孤立する懸念である。二番目は北朝鮮の拉致問題で政治的キャリアを確立した安倍首相が参院選で大敗して影響力を弱めていることである。このため官僚達が北朝鮮との妥協点を求めだしたことである。これは米国が日本から離れると日本が孤立するという懸念から出ている。

この様に見てくると朝鮮と日本の関係というのは「政治家レベルの強硬意見と現実的対応を迫られ小細工を弄する官僚」というパターンを繰り返す歴史という一面が見える。官僚レベルで小細工をした例の最たるものは文禄の役の後、日本・明双方の官僚がお互いに相手が降伏したと偽りの報告をして終戦を図ろうとしたことである。ここで官僚を責めるつもりはない。責められるべきは無益の侵略戦争を起こした秀吉である。小細工という意味では朝鮮通信使の応対に当たった対馬藩も幕府・朝鮮双方のはざまで度々苦労をした様である。

話が横道にそれた。本題に戻すと前出したデュアリック教授が次のようなことを言っている。

  • 9・11事件そしてイラク戦争後米国は、軍事力を極東から中東にシフトしている。それは不幸なことながらイラクに多くの軍事力を必要とし、規模は小さいもののアフガニスタンにも軍隊を展開しなければならない。米国の負担はきわめて重く、北朝鮮問題を早期に解決する必要がある。

以下は私の解釈だが、大統領選挙を控えてブッシュ大統領は「外交・軍事面の成果」を必要としている。そのためには極東を安定化させイラク・アフガニスタン問題でも解決の糸口をつけなければならない。アフガニスタン復興には日本の協力が必要であり、インド洋での自衛艦の給油活動が必要となるわけだ。

ここで米国の基本的な戦略を理解しておく必要がある。それは産油地域であるアラビア沿岸を安定させ、石油の安定的な供給源を確保するとともに、その運送経路であるインド洋からマラッカ海峡・東シナ海のベルト地帯の安全を確保することである。そしてこれは日本の経済権益とも一致するところである。

北朝鮮による拉致問題を軽視する訳ではないが、それに固執して北朝鮮問題の解決に米国や韓国と足並みをそろえないと日本は孤立する恐れが出てきた。

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企業の社会的責任論再燃

2007年09月11日 | 社会・経済

企業の社会的責任(SCR: Corporate Social Responsibility)が再燃している。もっとも日本ではなく米国での話だが。エコノミスト誌によると最近ロバート・ライシュ氏が「スーパー資本主義」(Supercapitalism)という本の中で「SCRは民主主義の土台を崩す危険な気晴らしだ」とCSRを批判している。

ライシュ氏はクリントン政権で労働長官を務めた人物で今はUCLAの教授だ。著書「勝者の代償」は日本でもちょっと有名になった本で私も読んだことがある。氏は左翼的な考えの持ち主である。さてその主張のポイントは・・・・・

  • 少なくとも重要な部分で企業は社会的に責任を負うことはできない。
  • CSRのアクティビストは社会的問題を解決するというより現実的で重要な政府の仕事から注意をそらされている。
  • ウオールマートやグーグルが良いとか悪いとかいう議論はポイントを外している。っ政府は利益を極大化を目指す企業が社会的利益に反することがないようにルールを定める責任がある。

CSR擁護者も政府がゲーム(企業競争)のルールを定める上で決定的に重要な役割を担っていることに反論するものはほとんどいない。しかしCRS擁護者はライシュ氏の意見を「現実的でない」として否定している。

ライシュ氏は第二次大戦後の米国企業は実際のところ社会的責任を負っていたと見ている。ビジネスリーダーは経済成長の利益を均等に分配する責任を負っていると信じていた。それが可能だったのは米国企業は寡占状態を享受していたので、社会的責任を果たす余裕があった。しかし今日の世界的な厳しい競争の上に成り立つ「スーパー資本主義」の下では企業にそのような余裕はないというのがライシュ氏の主張だ。

一方CSR擁護者は異なった見解を持つ。第二次大戦後ビジネスリーダー達は世界経済を再建し、社会的資本に再投資することが彼らの賢明な利益の中にあると信じていた。そして今日も同じような機会が気候の変化、不適切な教育問題等々の中にあり、それらを解決することについて企業の方が政府よりも大きなインセンティブを持つかもしれないと言う。

神学論争的にも見えるが、大統領選挙が近づくにつれて「企業の社会的責任」をめぐる議論は活発化するだろう。サブプライムローン問題も企業の社会的責任論に一石を投じるはずだ。

私の見るところでは今回のクレジット・クランチは「企業活動に対する政府の規制強化」を求める声を高めると考えている。テレビで米国のニュースを見ていたら「サブプライムローンを借りてデフォルトに陥った人間はファイナンシャル・リテラシー(金融理解力)が欠如していたので、こういった教育が必要だ」という議論が出ていた。しかし難しい話も結構だが、世の中うまい話はないという当たり前のことを小さい時から教えることの方が大切なのだろう。米国には聖書というツールがあるので、聖書がいかに貪欲を禁じているかを読み返してみるのが良いだろう。

日本ではビジネスパーソンは江戸時代のしっかりした商人の家の家訓などを読んでみるのが良いだろう。例えば酒田の豪商本間家には「公共事業に全力を尽くし、公共のためには財をおしむなかれ」という家訓がある。「商品の良否は明らかに之を顧客に告げ、一点の虚偽もあるべからず」というのは高島屋の家訓だ。

これらは企業の社会的責任や企業倫理を明文化したものだ。CSRの範は米国に求めなくてもちゃんと日本にあったのだ。格差・環境・教育等の問題を考える時、昔の日本人がどう考えどう行動していたかを勉強することは意味深いだろう。

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