先日文科省管轄の日本スポーツ振興センターが有識者会議を開き、オリンピックのメインスタジアムになる新国立競技場を2千5百億円をかけて建設することが決まった。
今日テレビニュースを見ていたら、野党議員が下村文科相に「公費をできるだけ投入しないのか?」と質問し、文科相は「税金はできるだけ使わない」と回答していた。野党議員の質問も間が抜けている。「公費」というと封建時代のお殿様の手元金のように、お上の裁量で使える金のように聞こえるがそんなお金はどこにもない。あるのは国民が税金で払ったTax payer's moneyだけである。更にいうとその納税された資金も実は帳面だけの話。日本は国民総所得の2倍を上回る大借金国であり、資産負債の断面を見ると債務超過の状態だ。
それでも資金繰りが回っているのは、国民一人当たりが約1千万円の資金を国に貸し付けている(国債を買っている)からだ。ここがギリシアと違うところ。IMFや欧州銀行のような大口債権者がいれば「財政赤字の中でこんな無駄な投資はするな!」と烈火のごとく怒るはずだが、貸し手が多くの国民に分散されているので怒りの声がまとまらないのかもしれない。
まとまらないとはいえ、国民の8割以上が新競技場に2千5百億円も資金を投じることに反対している。これは納税者としてとともに日本国に対する大口債権者として、その投資が無謀でリターンのないものだと感じているからだ。
「現代ビジネス」には新競技場は「現代の戦艦大和で沈むのは確実」というタイトルの記事があった。
新国立競技場が沈むかどうかは分らないが、そんなことを続けていたら沈むのは日本である。そんなこととは何か?というと「財源の裏打ちのないまま巨大プロジェクトを走らせる」ことであり、「一度決めたら設計を白紙に戻せない」という理屈にならない暴論である。
それでは戦争の見通しのないまま国力10倍のアメリカと戦争を開始し、負けが明白になっても戦争を止めることができなかった70年前と同じである。
そもそも公費=税金を追加投入しないでこの巨大なプロジェクトを進めることができるとは考えられない。千歩譲ってどこかからそのような資金が出てきたとしてもそのお金は死に金になる。つまり他に回せば少子高齢化や過疎化等で一層苦しくなる日本を多少なりとも救うことができる資金が死んでしまうのである。
ここだけはギリシアに学んで国民投票をしてみれば、と言いたくなる。