名古屋の伊藤さんを中心とした数名の人間が「日本相続学会」を立ち上げて約2年が経った。私は当初から「相続は学問領域になりうるのか?」という疑問を持っていたし、今もなおその疑問は残っている。「相続」は、相続は人の生き方の終着点であり、財産を受け取る相続人の立場からは、一生に一度あるかないかのまとまった財産を手にする機会であり、人間の生活で大きな意味を持っている。しかし「相続」は民法や税法の中で議論・解決されるべき事案で、一つのまとまった「学問領域」足り得るのか?という疑問を持ち続けてきた。
しかし「相続」というものを「民法」の定義から踏み出して考えると、「相続学」の輪郭が見えてくるのではないか?とも今では考え始めている。
「民法」は「相続は(被相続人の)死亡により始まり、相続人は被相続人の一切の権利義務を承継する」と定める。仮にこれを「狭義の相続」と呼ぶことにしよう。
一方相続を「人間を含めた動物が生活基盤を子孫に伝える手段」(私の勝手な定義)と広くとらえるなら、「生前贈与」なども「広義の相続」と捉えて「学問領域」の射程範囲に入れることが可能だ。
実社会の中では既にそのような動きが起きている。たとえば一定の条件を満たす親子間や祖父母・孫の間の贈与に対する非課税措置だ。祖父母が孫に学校の授業料などの境域資金を贈与する場合、金融機関の専用口座を利用すると1,500万円まで贈与税がかからない。また住宅購入資金については、現在1千万円まで贈与税がかからない優遇措置があるが、この枠を3千万円まで拡大することが国道交通省で検討されている。
政府の狙いについて「高齢世代から若者世代に資金の移転を促進して個人消費を底上げする」といううがった見方もあるが、私は「高齢化が進む日本の社会において、子孫の繁栄を願う前世代として理にかなった動き」と判断している。というのは高齢化時代になり、被相続人の死亡年齢が高くなると、相続人である子どもの年齢も高まり、子どもが資金を必要とする時に「あてにしていた」親の財産を使うことができないという現象が起きているからだ。
例えば親が70歳で死亡することが普通だった時代を考えてみよう。親が死んだ時、40歳(世代間の年齢差30歳として)の子どもは親の財産を相続して、その財産を自分の子ども(10歳程度)の教育費や住居費に充当することができる。しかし仮に親が90歳まで生きるとすると子どもの年齢は60歳で、孫の年齢は30歳だ。子どもは一番お金が必要な時に親の財産をあてにすることができないのだ。
「相続学の一つの領域は、人間社会の健全は発展のために、高齢化社会の中で世代間の財産移転スキームを考える」ことにあるといって良いだろう。
次に「円満かつ円滑な相続」を標榜する相続学会として、考えないといけない問題は「財産配分の原則」の見直しだと私は考えている。
これは全くの私見なのだが、私は歴史的にみて相続財産の配分原則には「資本財(あるいは生産財)維持の原則」と「(子どもの間の)平等の原則」と「(相続人間の)公平の原則」があると考えている。「資本財維持の原則」とは、家業(農業であれ商業・工業であれ)を維持し、家業で扶養される人間の生活基盤を維持するために、家業を引き継ぐ人間が財産の太宗を引き継ぐという考え方だ。戦前までの長子相続はこの考えに立脚すると見て良いだろう。遊牧民の中には「末子相続」を原則とする民族もあると聞くがこれも「資本財維持の原則」に立脚していると考えてよいと思う。
これに対して戦後の民法は「(遺言書による定めがない限り)子ども間の相続分は相等しい」として「平等の原則」を示している。
しかし高齢化に伴い「介護」の問題が脚光を浴びている。「介護」については民法904条2で「療養看護等に対する寄与」が認められているが、実際には介護による寄与分が認められることは多くないようだ。
「介護」問題について私は門外漢なので、深入りは避けたいが敢て感じるところを述べると「介護は個人で行う時代から社会で行う時代に変わるべきだ」ということだ。あわせていうと「育児も個人の問題から社会で考える問題」に変わるべきだと私は考えている。
話を相続財産の配分原則に戻すと「(相続人間の)公平の原則」をもう少し全面に押し出す必要があるのではないか?と私は考えている。
これらの「配分原則」の間の調整を総て法律で行うことは不可能だろう。相続を巡る個別の事情は千差万別だからだ。
私は相続を巡る争いを少なくする方法は被相続人・相続人が「相続財産の配分原則」には「民法が定める同一地位にある相続人間の平等原則」だけではなく、「資本財維持の原則」や「相続人間の公平原則」があることを理解することだと考えている。
公平原則を敷衍して考えると、相対的に経済的に余裕のある兄弟が余裕のない兄弟に譲歩することも可能になるのではないだろうか?
そして「平等原則」以外の原則で財産を配分することが望ましいと考える被相続人はその考えを遺言書で示すべきだし、なぜそう考えるか?という理由を相続人に分りやすい形で伝えるべきだと考えている。