子供のいじめ問題がマスコミを賑わしている。その対策についても識者と称する様な人が色々述べているがピンと来るものは少ない。私は少年の教育にとって一番必要なことは「社会生活で必要なルールを無条件に教え込む」ことだと考えてきた。
それは「論語」でも良いし「モーゼの十戒」でもかまわないが、「人がすべきこと」「してはいけないこと」を無条件に叩き込むことである。これはビーバの親が子供に泳ぎ方を教え、ふくろうの親が子供にえさの獲り方を教えるようなもので理屈はいらないのである。
このような基本的な教えの中でシンプルで小学校低学年の子供に適していると考えられるのが会津藩で6歳から9歳位までの子供が暗誦し誓い合ったのが「什の掟」である。
1.年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2.年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ
3.うそを言うてはなりませぬ
4.卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5.弱いものいじめをしてはなりませぬ
6.戸外でものを食べてはなりませぬ
7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
以上
「什の掟」の中に「弱いものいじめをしてはいけない」という教えがあることは、このような教えがないと昔の子供社会でも「いじめ」があったことが分かる。生物としての人間は生まれた時から限られた食料や寝場所を求めて兄弟の間ですら、競争する様に遺伝子が仕組まれているはずだ。弱いものを蹴落とすのが「個体と種」を繁栄させるための遺伝子のプログラムである。しかし人間の様に複雑な社会を構成し、精神面のウエイトが高くなった生物では遺伝子の支配のままに生きることは危険である。
話の本筋から外れるが肥満の問題は遺伝子の仕業である。長い飢えの歴史の中で人間の遺伝子は余分なエネルギーを脂肪として蓄積するようにプログラムされているが、これが肥満の原因である。従って人間は「食べ過ぎが体に良くない」ことを学び自制することが必要になる。
このように遺伝子の働きを修正するには「教育」が必要である。「何故卑怯な振る舞いはいけないのか?」「何故いじめはいけないのか」ということをゲームの理論などを使って論理的に説明することはできる。しかしそれは小学校低学年クラスの子供には難しいだろう。この年代の子供達には理屈抜きに社会生活の基本原理を叩き込むということが必要である。
この様に極めて有効な教えであるが教育者が「『什の掟』を教えよう」と主張しない理由は簡単である。つまり「教育者」とか「指導者」と称する人大人で胸を張ってこの掟を守っているといえる人間が余りに少ないのである。無論「戸外でものを食べる」と「戸外で婦人と言葉を交わす」は今日的に修正した上でもだ。
マスコミを賑わすのは知事や政治家、マスコミを賑わした若手経営者、高等学校の校長や教育委員達のウソと卑怯な振る舞いである。街に出れば若者が路上にへたり込んでアイスクリームを食べている。行楽地に行けばヘベレケに酔っ払っている中高年の旅行客が溢れ、電車の中では朝からべたべたしているカップルがいる。会社では些細なことで部下をいじめるパワーハラスメントが問題になるかと思うと、上司にまともな挨拶も出来ない閉じこもり型の部下が増えているという状態だ。
つまり現在の日本の社会~いや日本だけかどうかは知らないが~は、江戸時代の子供の規範から見ても極めてでたらめな社会になっている。子供のいじめの問題は畢竟でたらめな大人に対する「生物」としての警告なのかもしれない。