金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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観音様も出開帳で大変ですね

2006年11月12日 | うんちく・小ネタ

今日(11月12日日曜日)ワイフと上野の東京公立博物館に仏像特別展「一木にこめられた祈り」を見に行く。最大のお目当ては滋賀県・広源寺の十一面観世音菩薩である。

Kougennji 今回展示されている仏様の中で一番多いのは十一面観世音菩薩である。菩薩とは仏陀の前身で他の衆生が悟りに到達するまで自らも悟りに到達しまいとするものだ。この菩薩の中で慈悲を顕現したしたのが観音菩薩でその中で古い時代に人気が高かったのが十一面観世音菩薩である。

広源寺の十一面観世音は平安時代の作である。緩やかに逆くの字に曲がった体は柔らかく肉感的でさえある。特徴的なのは牙上出面(くげじょうしゅつめん)と瞋怒面(しんぬめん)の各一面が左右の耳の後方に配置されているところだ。

今回出展されている仏像は素晴らしいものが多いがこの広源寺の観音様は中でも素晴らしい。

さて展示されている仏像は平安時代後期(11世紀)からいきなり江戸時代の円空と木喰(もくじき)まで飛ぶ。この間5,6百年の時間が経っているのだが、一木作りの仏像は作られなかったのだろうか?という素朴な疑問が湧いた。

簡単に思いつく答は鎌倉仏教(日蓮宗、浄土真宗・曹洞宗など)は、余り仏像崇拝を行わなかったということだ。私は勝手にこれを「日本仏教の哲学化」と名付けることにした。今回展示されている仏像は、観音菩薩の他に毘沙門天や十二神将が多いがこれらの仏様は神秘主義的である。あるいは物語的である。ところが鎌倉仏教はもっと哲学的である。

鎌倉仏教が哲学的というと「ひたすら阿弥陀如来を拝む浄土真宗のどこが哲学的なのか?」という批判を受けるかもしれない。これは長い議論になるので省略するが、少なくとも親鸞聖人の教えは神秘的ではない。私は鎌倉仏教が思弁的になったことで仏像特に一木作りの仏像が衰退したという仮説を別途掘り下げてみたいと考えている。

江戸時代になって一木作りは素朴な庶民信仰の中に復活するのである。江戸時代は鎌倉仏教の教義や精神が空洞化した時代であったともいえる。仏教が檀徒制度という幕藩体制の中の個人情報管理システムを担うことで堕落したことに対する抗議が円空仏になったと言えるかもしれないなどと思いながら私は博物館を後にした。

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