昨夜NHKの「無縁死・3万2千人の衝撃」http://www.nhk.or.jp/special/onair/100131.htmlというドキュメンタリー番組を観た。ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れと観られる死者」が増えているという内容だ。
このことについて少し考えてみた。まず「無縁」の「縁」ということ。ここでいう縁とは「血縁者」である。より端的には子供や孫だろう。誰しも孤独に死ぬよりは子供や子孫に見守られて最後のひと時を過ごしたいと思う。だがそれに加えて我々日本人には広く「追善供養」という考え方があるからだろうと私は考えている。追善供養とは亡き人に対し子孫がお経をあげるなどの功徳を積むことで、亡き人の成仏が進むという考え方だ。従って追善供養を認めると死後追善供養が行われない人は成仏できない(生きている時にうんと功徳を積むと別だろうが)という考え方が成り立つことになる。
このことをキリスト教文明との比較で考えるため、英語で「無縁仏」のことを何と言うか調べてみた。ヤフー辞書によると無縁仏は a decesed person without any surviving relatives to pray for his (her) soulとある。「彼(彼女)の魂を祈る生きている親類縁者のいない死者」ということだが、無縁仏に対する一つの英語がないということは、キリスト教文明には「無縁仏」という概念がなさそうだ。
私はキリスト教について詳しくないが、ざっというと人はこの世で行った善行と悪事により審判され、天国か地獄に行く。後から子孫が死者の魂を祭っても効果なしというものだ。因みに日本では浄土真宗が「追善供養」を認めない。こちらは「総ての人は阿弥陀様により救済されることが決まっている」ので、供養の必要なしということだろう。
大雑把な言い方をすると、一神教においては魂の救済において「血縁」の意味はないと私は考えている。では神を信じる一神教の信者は孤独な状態で死ぬことを恐れないのだろうか?これについて私は判断材料を持ち合わさない(理屈の上では「恐れない」ことになるのだろうが)。
我々は縁という言葉をもう少し広く考える必要があるかもしれない。縁とは生きている親族に限らず、我々の先祖を含む大きな命の樹を育んできた自然環境と考えて見てはどうだろうか?そうすると総ての人が何かに「縁」を持っていることが分かる。この世の中に無縁の人など存在しないと私は考えている。