土曜日(2月6日)午前中、スポーツクラブのトレッドミルでテレビを見ながら、ランニングをしているとたまたま永平寺が取り上げられていた。越前永平寺、曹洞宗の大本山である。そこに入門して修行する雲水の姿を描いたNHKの番組だった。
「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるとは万法に証せられるなり」という道元禅師の教え(正法眼蔵・現成公案)の言葉が流れた。
道元禅師の教えは「おのれを捨ててただ座禅をすること」只管打坐である。道元禅師の教えでは悟るということ(=証)と修行(=修)の間に区別はない。修行をする過程そのものが悟りである。また修行は禅道場で座禅を組むことばかりではない。お寺の食堂係としてお坊さんの食事を司る「典座」を勤めることもまた重要な修行である。托鉢も掃除のような作務(さむ)もまた修行である。
都合の良い解釈ながら心の持ちようによっては山登りもまた座禅の一種ではないかと私は考えている。
そのような話を聞きながら8km走った。私は週に2,3回1回当たり7,8km走ることを目標にしている。山に行く週末はできることなら15kmか20kmを歩き続けるほどの運動をしたいと考えている。この運動量はアマチュアのアスリートしてむしろ少ないものだろう。マラソン好きの同僚によると、アマチュア・ランナーでも月200kmは走りこむそうだ。これに較べると私の走る距離などしれている。ちょっとしたランニング愛好家なら簡単に走る距離である。
にも関わらず私はこの程度の距離でも走り続けることに意味があると考えている。走り続ける先には中央アジアの高峰があるかもしれなし、それは見果てぬ夢で終わるかもしれない。だがそれよりも「今を生きるべし」という道元禅師のお言葉に従いたいと思う。
時々8kmほど走るということはささやかなストイシズムであり、小さいことではあるが私なりの修行の一つであると改めて思った次第である。