少し前に終末医療についてやや言わでもの発言をして、最近は個人的感想とか何とかいって平身低頭している麻生副総理だが、私は彼の発言を支持している。もっとも副総理ともなると、影響力を考えて慎重に振る舞うことが求められるので軽率のそしりは免れないが。
生物とは何か?ということを根源的に考えると、それは自己の複製を作ることが生物の本質だ、というのが今の進化生物学の考え方だ。進化生物学の泰斗リチャード・ドーキンスは「個体は遺伝子の乗り物である」と喝破した。個体としての命は短いが、遺伝子ははるかな過去から未来へと壮大な時を旅していく。
進化生物学の知見が正しいとすれば、今の人間、特に日本人は本来の生物の本能からかなり外れてところを歩いている。
私はこれは「脳と遺伝子の戦いの結果、一部の人間の間では脳が遺伝子を圧倒する」現象が起きた結果だ、と考えている。動物には「死後の世界」に対する恐怖はない、と一般に考えられている。無論死に対する情動的な抵抗はある。針にかかった魚は必至にもがき、手負いになった猛獣は時として激しい抵抗を示す。だがそれは「生きるための情動的な反応」と考えるべきだろう。
脳が発達した人間は「死後」を考え、死ぬことに強い恐怖感を覚えるようになった。その恐怖感を緩和するのが宗教である。宗教は「死後の世界」を示すことで人々の恐怖感を和らげた。しかし壮大な死生観を持つ宗教が根付いていない社会では時に肉体の命に対する固執が生まれる。
リチャード・ドーキンスはバリバリの無神論者だが、彼の言葉はヒンドゥ教の教える「肉体は魂の入れ物にすぎない」という言葉と面白いことに呼応する。つまり二つの言葉から肉体(=個体)を取り除くと、「遺伝子と魂」が残る。単純に遺伝子=魂とは言わないが、現在の進化生物学と古代から続くヒンドゥ教の教えに共通するのは、いつか滅びる肉体以外に生命体としての人間には綿々と続くなにかがある、ということだ。
肉体の寿命は短く、精神の寿命はもう少し長い。時として我々は2千5百年前の古代中国・インド・ギリシアの思想家の言葉に導かれることがある。偉大な人生は長く残る。
無論我々凡人の生きた記録や言行がそんな長く残ることはない。だがもしさわやかな人生を残すことができるなら、自分の家族や友人に何がしかの感動を残すことはできそうだ。
そう考えると「命を軽んじるのは仏の道に反するが、命に執着しすぎるのも仏の道に反する」と述べた道元禅師の言葉を思い出す。
麻生さん、政治家を辞めてなお元気な日があれば持論を多いに語ってください。