昨年11月から始まった相続学会のリレーセミナーは今月で3回目だ。今月は私と司法書士の宮田さんが話をする番だ。日時は18日午後5時から。場所は神田である。http://www.souzoku-gakkai.jp/seminar/index.html
人前で話をすることに抵抗はないが、小さな団体とはいえ「学会」で話をするとなると、ある程度論理的にストリーを組み立てる必要があるので少し準備をした。
ストリーはざっと次のようなことを考えている。最初に前回の講師・常岡獨協大学教授から渡された「多様性」という言葉で相続問題を考えていく。「多様性」という言葉は幅の広い言葉なので、あまり勉強していない学生に教授が救済のためレポートや論文試験の課題に与えるテーマ、と考えて良いかもしれない。つまり「それなりに何か書ける」テーマなのである。
さてスタート点としては「多様化している日本人の遺産動機」という切り口から考えてみた。日本人の遺産動機が多様化している、という時系列的に明確な統計調査に出会った訳ではないが、外国との比較などで日本人の遺産動機は分散化している、と私は感じている。具体的にいうとアメリカやインドのように宗教色が強い国では多くの人々は「利他主義的な遺産動機」を持っているが、日本では「自分の生活重視で余ったら残す」とか「世話をしてくれた子供に多く残す」という利己主義的な遺産動機を持つ人が多いのではないか?という推論である。
宗教観が遺産動機に影響を与えているのではないか?というのは大阪大学社会経済研究所のホリオカ教授のご意見で私はかなり共感している。多くのインド人はヒンドゥ教を信じ、多くのアメリカ人はキリスト教を信じている。二つの宗教の教義には大きな違いがあるが、最大の共通点は霊魂を信じることである。もっとも霊魂を信じない宗教などないだろうが。霊魂の永続性を信じると肉体の価値は相対的に下がる。
輪廻転生を信じるヒンドゥ教は肉体は霊魂の乗り物(ヴィークル)に過ぎないと考える。ヴィークルというと、現代を代表する進化生物学者は「個体は遺伝子の乗り物(ヴィークル)だ」と喝破した。世界的な宗教と進化生物学にある種の共通した生命観を感じる。
私見でいえばこの種の死生観の欠如が今の日本の社会、とくに高齢化社会の特徴をなしている、と私は考えている。例えば「命が回復する見込みのない人への終末医療」胃ろうなどの問題である。肉体の生への異常な固執、である。それが日本教といえばいえなくもないが。
これは進化生物学的にいうと異常な現象ではないか?生物本来の遺伝子は強い子孫を生む生殖能力を失った個体は、若い世代に生活の場を譲り静かに消えるようにプログラムしているはずだ。生命の本質が遺伝子を運ぶことである、とすれば。
「介護してくれた子供に多くの財産を残す」という遺産動機も進化生物学的には異常で、「できるだけ多くの遺産を均等に残す」という利他主義的な遺産動機が進化生物学と整合的だ、と私は考えている。その歪みが遺産相続争いの一つの原因となっているのではないだろうか?
明治のキリスト教思想家・内村鑑三は「人はまず事業を残せ、事業を残せないなら金を残せ、事業も金も残せないなら清らかな人生を残せ」と述べた。立派な遺産動機というべきである。まず自分なりの遺産動機を見つめることから、相続争いの防止は始まるのではないか?
ということでスピーチの3分の1は終わり。