最近「お坊さんが困る仏教の話」(新潮新書)という本を読んだ。著者は村井幸三氏という民間の仏教研究家である。内容は日本の仏教を含む大乗仏教がどれ程お釈迦様オリジナルの仏教から乖離しているかということや江戸時代に始まった檀家制度が今日の葬式仏教化した日本の仏教を規定したかということだ。著者の語り口は柔らかいが高いお布施を払って立派な戒名をつける習慣等にメスを入れている。仏教の入門書としてお勧めできる本だ。
ところで週末山梨県の桜の名所のお寺を回りながら、八ヶ岳連峰を遠望しているとふとこの本をことを思い出し、更には「日本仏教八ヶ岳論」という自説の展開まで頭に浮かんできた。
日本仏教八ヶ岳論というのは簡単にいうとこうだ。八ヶ岳というのは赤岳を盟主として阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、天狗岳などという個別の山の集まりを指す名称であるが、八ヶ岳という名称の山はない。
日本の仏教というのもこれと同じで天台宗、真言宗、浄土宗といった個々の宗派はあるが、仏教という統一された一つの教えはないのである。例えば日本の総ての宗派(主流は13あると言われている)が、共通して唱えるお経がない。般若心経は天台宗や禅宗では唱えるが浄土真宗では唱えず、浄土真宗で唱える浄土教系のお経は禅宗では唱えず・・・・という具合に「共通語」がないのである。
つまり日本のお坊さんというのは「黒い衣」を着ているという共通点を除くと、拝む仏様や唱えるお経まで全く違う場合があるということだ。
八ヶ岳に話を戻すと、「八ヶ岳」と聞いて初夏の高山植物彩る麦草峠や白駒池の風景を思い浮かべる人もいれば、烈風舞う大同心の垂壁を思う人もいるだろう。同様に仏教という言葉から阿弥陀様のいる西方浄土を思い起こしたり、寒風舞う中の托鉢を想像したりと仏教という言葉の持つイメージもバラエティに富んでいる。
つまり日本の仏教というカテゴリーには八ヶ岳の個性溢れる山々程に色々な宗派が存在するのである。私はキリスト教については仏教以上に門外漢であるが、キリスト教における各宗派の違いなど日本仏教における各宗派の違いに比べるとものの数ではないかもしれない。
狭い国土に個性溢れる宗派が林立する様は八ヶ岳の姿に似ていると私には思えるのである。私は日本の仏教がお釈迦様オリジナルの仏教から乖離したからそれだけで悪いという積もりはない。宗教も又風土の産物であり、時の権力との妥協の産物という側面も容認せざるを得ない。しかし花祭り(潅仏会、お釈迦様生誕の日、4月8日でたまたま今日だった)の日位お釈迦様が始められたオリジナルの仏教に思いを馳せ、今の日本の仏教は一体何なのだろうと考えても悪くはないだろう。